スペシャルインタビュー <佐々木 常雄 (東京医師アカデミー顧問)>
医師を目指したきっかけ
佐々木顧問はがん化学療法の第一人者でいらっしゃいますが、そもそも医師を目指そうと思ったきっかけは何だったのですか?
世の中の何かの役に立ちたいという気持ちは中学生の頃から思っていました。高校に入ってから、「人間って何なのだろうか?」と思うことが多くなりました。医学部に行けばより人間のことが分かるだろうと思って、医学部を目指したんです。
すると、「医師になりたい」というよりも、「人間を知りたい」という気持ちのほうが強かったのですか?
そう。だから入学の時は、必ずしも臨床の医師になろうという気持ちではなかったんですよ。
でも学生時代もずっと、人間を知りたいという気持ちは変わらなかったんです。だから結局、卒業時には、人間の全身の診療に関わる内科を選びました。
青森にて ~医師としてのスタート~
医学部を卒業された後、今で言う初期研修はどこで受けられたのですか?
昭和45年の卒業ですから大学紛争の最中です。弘前大学の第一内科(消化器内科、血液内科が中心)で6か月間の研修の後、青森県立中央病院の第三内科に行きました。ここでは、いろいろな病気、そしてたくさんの患者さんを診察する機会があり、大変良い勉強をさせていただきました。
大学病院と青森県立中央病院での研修生活はいかがでしたか?
大学では、疾患別のグループに分かれて、少ない患者さんを濃密に診療するという感じでしたね。内容は学生時代のポリクリで大体は分かっていました。青森県立中央病院はハードでした。一応、寮がありましたが、洗濯しに帰るだけですよ。毎日医局のソファーで寝ていました。お陰で脳出血、自殺企図などいろいろな病気の、たくさんの患者さんを診療させていただきました。
当時から、将来はがん専門医を目指したいというお気持ちがあったのですか?
青森県立中央病院で研修していた頃、若い急性白血病の患者さんを受け持ったことがきっかけです。患者さんと一緒に頑張って治療しているうちに完全寛解が得られ元気になられたんです。それは非常に良かったのですが、ちょうどこの頃、他の病院で研修中の同級生がやはり白血病で亡くなってしまったということもあったんです。こういった経験から、白血病やがんの治療を専門にしたいと思い始めました。
国立がんセンターレジデントとして
青森県立中央病院から国立がんセンター(当時)に進まれたのは、やはりがん医療を極めたいというような思いがあったからでしょうか?
そうです。当時は「悲惨で治らない」というイメージが強かった白血病も、頑張って寛解に入ったという経験から、抗がん剤で治療をする白血病や、進行したがんの診療を極めてゆきたいと思うようになっていったんです。そこで、白血病が専門の木村禧代(きよ)二(じ)先生の下で勉強したいと考えて、国立がんセンター内科レジデント(3年間)に応募しました。
腫瘍内科医としての腕を磨くために修行に出られた訳ですね。でも東京の病院は、青森と比べると生活や病院の環境も相当違ったのでは?
青森時代に比べ、給料は5分の1で、暮らせる額ではなかったですね(笑)。でもまだ独身でしたから、病院の中の宿舎(管理棟の一室)で暮らしましたよ。月1~2回は土日に近くの病院の当直に行ってバイトをしていましたね。
最近は若手医師の待遇も随分よくなったようですが、当時は大変だったのですね。でも、それだけ国立がんセンターでの研修はハイレベルだったのですか?
そうですね。当時は確かにがん診断のレベルは高かったですね。また病院の体制の違いに驚きました。がんセンターでは、医師はたくさんの専門分野に分かれていました。たとえば、外来・病棟診療で受け持ち患者を持たずに、胃X線写真検査のみを専門とする医師や、内視鏡検査のみを専門とする医師もいました。それまでいた病院では考えられなかったことです。胃X線写真の読影では、写真を見てがんの進達度を読み、切除標本と比較して正誤を確かめていました。肺X線写真(当時CTはなかった)では、断層X線写真で、写っている気管、動脈、静脈の解剖上の名前をつけ、腺がん、扁平上皮がんなど組織の診断をしていました。
白血病のほうの研修もかなりハードだったんでしょうね?
血液内科では、骨髄像の読み方をほとんど毎日、双方からのぞく顕微鏡で技師さんに教わりました。動かされるプレパラートを目で追っていると、だんだん吐き気がしてくるんです。ひたすら我慢ですよ(笑)。悪性リンパ腫の診断では、ギムザ染色のスタンプで細胞の形態から診断し、予後の予測もしました。病棟では、新しい白血病患者を受け持つと、絶対に完全寛解に持ち込むぞという意気込みで、緊張して治療にあたっていました。
相当濃密な内容の研修ですね。プライベートな時間はあったのですか?
ありませんよ、そんなもの(笑)。幸か不幸か、宿舎が会議室等の一角でしたからね。朝から晩まで一日中仕事でしたよ。たまに病院から近い築地の市場で食事するのが楽しみでした。
都立駒込病院 ~日本初のがん化学療法専門科~
昭和50年にいよいよ都立駒込病院での第一歩を踏み出されたわけですね。それまでいた国立がんセンターと比べて、駒込病院の第一印象はいかがでしたか?
駒込病院は感染症を主とした歴史ある病院でしたが、昭和50年に新装となり、がんと感染症を中心とした総合病院へと生まれ変わりました。医師は特定の大学からではなく全国46の大学から精鋭が集まりました。ですから新しい病院作りに毎晩のように激論を交わしました。そのためか、各科の垣根がないことが、診療においてとても良かったと思います。
先生は定年退職まで一貫して駒込病院で勤め上げられた訳ですが、この病院を一生の職場として選ばれた理由は何だったのですか?
実は、一生勤める病院とは全く思っていなかったんです。国立がんセンターでの直接の上司が駒込病院化学療法科部長として赴任されて、誘っていただいたんですよ。お手伝いするつもりで、当初はせいぜい1年か2年程度かなと思っていました。
そうだったんですか?意外ですね。でも化学療法科と言えば、まさに先生が志された、がんと化学療法に特化した診療科ですね。
実は化学療法科というのは当時、日本で初めての診療科だったんです。外科から、手術が出来ない状態、あるいは、終末期になったがん患者さんがたくさん送られてきました。いつも重症患者を診ていました。私が担当させていただいた患者さんが、一晩に3人も亡くなったこともあります。急性白血病の患者さんもたくさん担当しましたし、他科に入院しているがん患者さんの治療の相談も多数ありました。CPCの剖検例は、私の担当症例がいちばん多かったと思います。
化学療法科でのご経験を重ねるうちに、次第に駒込病院への思い入れが強くなっていったのでしょうか?
そうですね。次第に日常の臨床ばかりではなく、新しい治療法の開発や、がんの新薬の臨床試験に加わったりなど、研究にも参加するようになりました。 同じ敷地内に東京都総合臨床研究所(当時)があって、そこでネズミを使った抗がん剤の実験も行うことが出来ました。骨髄液の線溶活性の研究で学位も取得しました。そうこうするうちに、厚生省(当時)のがん研究班、学会でのガイドライン作りなどにも参加するようになりました。ですので途中、いろいろな病院や大学から誘って頂きましたが断りました。そんなこんなで結局、定年まで勤めることになってしまいました。
副院長、そして病院長へ
副院長から院長に就任されて、いよいよ病院運営のトップに立たれる訳ですが、臨床が中心だった時と比べて立場の違いに戸惑われたことはありましたか?
2人の院長の下で、副院長を7年務めさせていただきました。入院患者の主治医担当からは外れましたが、外来などの臨床業務は続けていました。管理業務が増え、院外のことでも都立病院全体の医療事故予防部会長や、厚生省がん助成金班会議の班員、学会では抗がん剤適正使用ガイドライン作成ワーキング委員長、日本胃癌学会胃がん治療ガイドライン作成委員長など、たくさん、いろいろな仕事をさせていただきました。 病院長になってから、駒込病院は東京のがん医療のまとめ役としての「都道府県がん診療連携拠点病院」に指定されました。自分の病院だけでなく、東京全体でのがん診療のあり方を考えました。
駒込病院だけでなく、東京や日本全体のがん医療のお仕事もなさっていたのですね。激務の院長職もこなしながらで、ご苦労はなかったのですか?
それは、大変でしたよ(笑)。思い出深いのは、2年半に及ぶ、診療を行いながらの病院の全面改修工事です。外来・病棟などの移転作業の連続で、これが一番大変でしたが、院全体の職員が一丸となって協力してくれました。 改修工事をきっかけに、高度ながん診療ばかりではなく、緩和病棟、患者サロンなど、また1類感染症の病床や、陰圧の病棟を作ることも出来ました。苦労はしましたが、院長として私の思いの一部を完成できたと思っています。
そもそも医師の世界で、経営者と臨床医でやる事は何が違うのでしょうか?
病院の経営は「臨床現場の医師だからこそ出来る」というところがあります。経営というのはより良い医療を行うための経営です。たとえば院内感染対策、医療事故対策にしても同様です。なぜ事故が起こったのか、どうしたら防ぐことが出来るか?看護師の配置はどうだったかなど、臨床の医師であればこそ、しっかりした対策が取れると思います。単に目先の増収だけを目的に考えていたら経営は成り立ってゆきませんし、患者さんが信頼できる病院にはなれません。患者さんと職員、双方の満足度がアップしなければ意味がありません。臨床医も、単に目の前の患者さんを診療するだけではいけない。どうしたら、トータルとして患者さんが幸せになれるか、患者さんの人生に貢献できるか、そこで現状の社会背景も考えなければなりません。医療体制は社会情勢に大きく左右されます。それをしっかり見なければなりません。
現在のがん医療に対して思うこと
佐々木顧問は、がん専門医として、抗がん剤治療を行なった患者さんは2万人以上、実際に最期を看取ったがん患者さんは2,000人以上とお聞きしております。そのご経験から最近のがん治療に対して感じるものはありますか?
がん医療は大変進歩し、以前は間違いなく亡くなったと思われるがんでも、治癒したり、長く生きることが出来るようになりました。日本のがん医療の成績は世界に誇れるものです。それはとても喜ばしいことですが、今は何か患者と医師の関係が希薄になっているのではないか? そう感じることがあります。もちろん、昔のようにがんであることを、病気の進行を隠すことはなくなりました。しかし、「あなたはあと3か月の命です。もう治療法はありません」とはっきり言われた患者の心のケアは出来ていないのではないかと感じることがしばしばあるのです。日本のがん医療で、この点が一番の問題点だと思っています。
東京医師アカデミーについて
東京医師アカデミーについてお伺いします。平成20年に東京医師アカデミーが立ち上がったとき、顧問は駒込病院長のお立場にあった訳ですが、大学ではない一般市中病院である都立・公社病院が独自に医師の育成に乗り出すということを聞いて、どのように思われましたか?
東京医師アカデミー謝恩会・記念講演会
~順天堂大学 天野篤教授をお迎えして~
私は卒業後、大学で研修したのは数か月です。青森県立中央病院、国立がんセンター、都立駒込病院と公的病院で育てられてきました。大学病院は研究に重きを置いていますから、医師数は多いですが、症例数は必ずしも多いわけではありません。優れた臨床医を育てるには、多くの症例を経験することが大切です。市中病院でも、症例数では大学病院に負けない病院はたくさんあります。都立・公社病院は14病院合計で7,200床あります。このスケールメリットはすごいものだと思いました。
最近は卒業しても医局に入らない、研修も市中病院でというケースが増えていると聞きます。それぞれメリット、デメリットがあるのでしょうが、顧問の目から見ていかがでしょうか?
同上
私の経験からいうと、大学の医局に入ると学位が取りやすいこと、研修修了後の就職も面倒を見てくれるということがあると思います。しかし、医局ですから当然のことですが、自分の希望する病院だけでなく、多くの関連病院へローテートしなければなりません。大学の医局に入らないで、自分で希望した市中病院での研修は、そこで専門医を取得し、その後の就職をどうするかは自分で決められるというメリットがあります。どちらが良い悪いということは、ないと思います。どちらを選ぶかは、個人の志向の問題でしょうね。ちなみに東京医師アカデミーでは、大学院と連携して、学位取得に向けた研究ができる道も作りましたよ。
若手医師の立場からすると、大学病院ではなく東京医師アカデミーで後期臨床研修を受けることにはどのようなメリットがありますか?
まず、たくさんの症例を経験できることが挙げられます。大学病院よりも医師数が少ないですから、レジデントに回ってくる症例も多いんです。ER研修もありますから、多様な症例に対応できる総合診療能力も修得できます。私は医師アカデミー顧問に就任してから、すべての都立・公社病院の研修状況を見て回りましたが、症例数が足りないというような不満はまったくありませんでした。専門分野が違っている場合は他の都立・公社病院に行けますから、問題はないのです。それと指導体制ですね。指導医は基本的にマンツーマンで配置されますし、コース責任者や副院長などの上級医にも積極的に関わってもらっています。一人で放り出されるようなことはまずありません。あとは、学会活動や臨床研究に対する費用面でのサポートが充実していることも挙げられます。そして研修修了後の進路も、人に指示されるのではなく、上司と相談したりして、自分で希望する道を探せるということだと思います。
逆に、入局された先生方と比べて不利になるようなことはあるのでしょうか?
あまり不利なことはないように思います。学位取得が遅くなるのではとも思いますが、臨床医としては、不利はないと思います。
専門医を目指す若手医師へ
最近は医師の世界でも専門分化が進み、専門分野以外は診られないという医師も珍しくないようです。顧問は最近のこの傾向をどのようにお感じになっていますか?
国や学会でも、むしろこの点を憂いて、さらに高齢社会で合併症をもっている患者が多くなっていることもあり、専門医制度の改革にも繋がっていると思います。東京医師アカデミーは総合診療ができる専門医をめざし、そのように研修コースを考えています。今後、たとえば内科であれば、初期研修後に総合内科専門医を取得し、その後に血液専門医などを取得することになると思います。総合診療ができる専門医、つまり東京医師アカデミーが実践し、目指すところです。
医師の先輩として、これから専門医を目指す方に何かアドバイスをお願いします。
各科の専門医とは「標準治療が出来る」ということを目指しています。しかし、日本の国民が望む専門医とは、「スーパードクター」のイメージを考えます。専門医を取っても、国民が望む、信頼できる医師にはまだまだです。ですからぜひ、専門医取得後も絶えず研鑽を積まれることをお願いいたします。 それから、最近は患者と医師の関係が希薄になっているように思います。医療は「仁・思いやり」が基本です。ガイドライン通りしか出来ない、あるいは同意書を取っておけば大丈夫という医療では困ります。心のケアを含めた全人的医療を心がけていただきたい。もう一つは、目の前の患者さんを診療しているだけではなく、社会を見つめる目を養って下さい。いつの時代でも、私たちは矛盾の中で生きています。しかし、今の社会で本当に今の制度で良いのか? 理想の医療とはどのようなものか、どうすれば実現できるかを考えていただきたいと思っています。
(東京都立駒込病院 名誉院長室にて)
佐々木 常雄
元東京医師アカデミー顧問
がん・感染症センター都立駒込病院名誉院長
日本癌治療学会名誉会員
日本胃癌学会特別会員
日本造血幹細胞移植学会特別会員
東京がん化学療法研究会理事
佐々木 常雄 略歴 | |
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1945年 | 山形県天童市生まれ |
1970年 | 弘前大学医学部卒業・同第一内科入局 青森県立中央病院第三内科医員 |
1972年 | 国立がんセンター内科レジデント |
1975年 | 同修了 東京都立駒込病院化学療法科医員 |
1982年 | 同医長 |
1992年 | 同部長 |
2001年 | 東京都立駒込病院副院長 |
2008年 | 東京都立駒込病院長 |
2012年 | 同上退任・同名誉院長 病院経営本部医師アカデミー顧問 |
2015年 | 同上退任 |
<専門> がん化学療法・腫瘍内科学 <学会> 日本内科学会評議員、日本癌治療学会監事・評議員、日本血液学会評議員、日本臨床腫瘍学会評議員 など <業績> 委員長として日本癌治療学会抗がん剤適正使用ガイドライン、G-CSF適正使用ガイドラインの作成、日本胃癌学会胃がん治療ガイドライン改訂などを主導する <著書> 「がん診療パーフェクト(羊土社) 2010年」、「がんを生きる(講談社現代新書) 2009年」 ほか多数 |