Vol.02 日本の医療、福祉は『サービス業』か?

2012.10.30

介護保険が導入される前後、行政措置の福祉から契約によるサービスへということが喧伝され、 実際、それまで社会福祉法人にしか認められなかった公的福祉サービスが営利企業にも認められるようになりました。 私企業の参入を認めたからかどうかは別にして、介護保険導入以前に比較すると、普通の市民が受けられるサービスは多様化し、その質も格段に改善しました。 しかし、一方で、心身の障害に加えて、経済的にも困窮している人に対するサービスはかえって厳しい状況になっています。 数年前、関東北部の無届有料老人ホームで火災があり、入居者が焼死するという事件があったことを覚えていらっしゃるでしょうか。 あの事件をきっかけとして、生活保護受給者ばかりを引き受けている老人ホームの存在が明らかになりました。 もちろん、社会活動として最低の料金で可能な限りのサービスを提供する施設もあるのでしょうが、あの火災を起こした施設のように、 目を背けたくなるような劣悪な環境に多くの生活保護者を集めている施設もたくさんあるのです。 こういうことを書くと、お役所は、低所得者には介護施設の費用負担を免除する制度があるのだと反論するでしょう。 しかし、私が3月まで院長をしていた認知症専門の病院に生活保護受給者が入院した場合、福祉事務所に退院先の手配を頼むと、 どこの福祉事務所でもほぼ例外なく、こうした『有料老人ホーム』を探してきました。 制度があるという建前と、実際に利用できるということの間には越えがたい壁があります。 『介護』が市場化されることには利点が多く、一概に否定はできませんが、一方で、所得が少なく、 家族もいない人に最低限の生活を保障する『福祉』については、市場原理に丸投げするのは危険です。

さて、医療における『サービス業』談義が盛んになったのは、規制緩和、市場原理主義が我が国を席巻していたころでしょう。 ここでも、公的規制を緩和し、サービス提供を市場原理に任せれば、競争原理が働いてより良いサービスが、より安く提供されるようになるという考え方でした。 景気の先行きが見えない中で、医療を企業としてとらえ、ここにビジネスチャンスがあるのだという人も少なくありません。 さて、効率の問題や、産業としての立ち位置の問題は別にして、私たちの国の医療はサービス業だと言っていいのでしょうか。 私はそうではないと思っています。サービス業は、サービスを売り、その代価をお金で頂く仕事です。 そうであれば、たくさんお金を払う人には、たくさんのサービスを提供すべきだし、お金を払えない人にはサービスを売る必要はありません。 しかし、医療機関がそれでいいのでしょうか。そうではないはずです。

私は、松沢病院長になるとき、日本国憲法を順守するという誓約をいたしました。 日本国憲法25条は、あらゆる基本的人権の前提として、言い換えるなら、最も大切で基礎的な権利として生存権を規定しています。 我が国の国民皆保険制度は、この憲法の精神を具現化するために、経済力や出自、社会的地位に関わりなく、国民の命を尊重し、その平等を認めるものです。 我が国の医療保険制度のもとでは、被保険者たる国民は、みんなで保険料を払い、不足分を税金で補って、医療が必要となった時に備えます。 保険者は保険組合であったり自治体であったりしますが、いずれにせよ、高い公共性を持つ組織です。 病気やけがをすると、保険者から被保険者である国民に保険料が支払われますが、この保険料は現金ではなく、医療行為(診察、検査、治療、薬など)という現物で給付されます。 つまり、医療機関は保険者に変わって現物給付を行い、その代金を保険者から受け取っているということです。 国民の自己負担分がありますが、これは、言ってみれば自動車保険の免責分のようなものです。
つまり、医療機関と患者さんは直接取引をしているわけではないのです。 したがって、もしもこれをサービス業者と消費者という図式でとらえると非常に大きなモラルハザードが起こります。 たとえば、消費者が、長い外国旅行の為に、常備薬として風邪薬、鎮痛剤、胃薬、抗生物質がほしいと思ったとします。 サービス業者である医師は、お得意様の要求に応えます。こうして患者さんは、病気でもないのに、旅行用に、市販薬より良く効く薬を7割引きの料金で手に入れることになります。 医師は処方料を手に入れ、院内処方なら薬価差益も儲けになるので、両者とも得をして、めでたしめでたし・・・でしょうか?そうではありません。 患者さんの薬代の7割、医師が保険者から受けとる診療報酬は、税金や健康保険料から支払われているのですから、患者さんと医師が国民から不当にこの金額をごまかしているのです。 医療保険は、病気やけがになった時の治療を保障するもので、まだ、病気になっていないのに安心のために持っておく薬代を保障するものではありません。 これは立派な詐欺行為なのです。だから、我が国の医療はサービス業ではないし、サービス業であってはならないのです。

患者様、という呼び方は、多分、医療はサービス業であるという主張とセットになって聞かれるようになった言葉だろうと思います。 傲慢な医療者をたしなめる言葉としては意義があったと思いますが、半面、患者さんが、商取引における消費者として、 自分が要求する医療行為を提供するのは医療機関の義務であると主張するような風潮を招いたという意味では弊害の大きな言葉だと思います。 医療者は、生存権という、憲法が保障する基本的人権を実現するために、与えられた予算の中で必要十分な医療行為を行うという自覚を持つべきですし、 患者さんには、世界に類を見ない日本の国民皆保険制度を維持するためにも、節度を持った受診行動をしていただく必要があります。

『サービス(service)』という言葉は、元来、神様や祖国、自分の属する集団など、大切な、価値あるものために、無償でささげる労働のことを言います。 日本の医療はサービス業ではないというお話をいたしまた。私は、我が国の医療は、『サービス業』ではなく『サービス』であるべきだと思っています。 私たちの『サービス』は、人間の命に値段をつけないという、日本国憲法の高い理想を実現するために捧げられるものです。 東京都立松沢病院は、医療を必要とする人に、必要な医療を、効率的に提供できる病院でありたいと思います。