2020.10.23
2020年10月18日、日本の新聞各紙は、前日に開票されたニュージーランドの総選挙で、アーダーン首相の与党、中道左派の労働党が単独過半数を獲得したことを報じた。アーダーン首相は2017年に首相になって以来、クライストチャーチでの銃乱射事件、ホワイト島の火山爆発、そして今回の新型コロナウイルスと、さまざまな事件や天災と遭遇しながら連立政権を運営してきた。今回の圧勝は、新型コロナウイルス対応に対する国民の評価が高かったためだという。ニュージーランド(人口約488万人)における17日までの感染者は約1900人、死者は25人である。ニュージーランドはヨーロッパで感染再拡大が起こっている現在もなお、小規模なロックダウンを繰り返しながら大きな市中感染を防いでいる。
今年の春、世界各国が、新型コロナウイルスの猛威の前になすすべがない状況の中で、台湾では蔡英文総統率いる政府が、いち早く中国との人の往来を制限してウイルスの水際対策を実効有らしめ、計画的なマスクの配布等でパニックを未然に防いだ。台湾の防疫政策の成功は、公衆衛生の専門家である陳建人副総統のリーダーシップと、デジタル担当の政務官唐鳳による情報収集、分析、管理、発信であった。台湾(人口約2357万)では、強力なロックダウンが行われなかったにもかかわらず、10月16日までの集計で、感染者は535人、死者は7人にとどまっている。デジタル技術を駆使した台湾の防疫体制は、ニュージーランドにおける政策遂行のモデルともなり、蔡英文総統の支持率は70%を超えた。
新型コロナウイルスがヨーロッパで猛威を振るっていた今年の5月、私はBBCワールドニュースで、スコットランドの 二コラ・スタージョン首相(First minister)の演説を聞いた。深刻な顔で国民を不安にすることもなく、受け狙いの奇妙な造語や劇画チックなフリップで視聴者を困惑させることもない。外国人の私にもよくわかる簡単な英語で、まっすぐカメラを見つめ、新型コロナウイルス感染が拡大しているスコットランドの状況を国民に説明し、一人一人の国民がとるべき行動を具体的に説き、政府が何をしているかを静かに語り、こういうときだからこそ、互いに助け合い、協力して難局を乗り切ろうと訴えている。高齢者や子供たちにも、具体的にどう過ごすべきかを語りかける。「苦しいとき、人は人との結びつきを求めるが、今、私たちは、人と距離を取るように求められている。こういうときこそ、さまざまな手段でコミュニケーションを図ろう」、「私たちは、今、激しい嵐に翻弄されている。いつ、乾いた土地にたどり着けるのか、私にもわからない。私は、皆さんの助けを必要としている」、しかし、「私たちは必ず、現在の困難を切り抜けることができる、切り抜けてみせる。皆さんの協力に感謝する」と結ばれる。連合王国の一部であるスコットランドの新型コロナウイルス対策は、決して成功しているとはいいがたい。しかし、連合王国の首相、ボリス・ジョンソンの支持率低下をしり目にスタージョン首相の政策はコロナ禍の内にあってもスコットランド国民の広い支持を集めており、そのために一旦は否決されたスコットランド分離独立の機運が再び勢いを増している。
ニュージーランド、スコットランド、台湾の政府は、危機に直面して情報を秘匿せず各々の時点で正しい情報を発信し続け、国民に、ただ自制を呼びかけるのではなく、政府として具体的にパニックを防ぐ手段を講じ、さらに、この、未曽有の危機に直面して、物事の優先順位を決めて、政府の責任で果断に実行したという点で共通している。ニューズウィーク・ジャパンは、台湾の対コロナ防疫体制の成功のカギとなったのは、「スピード感、透明性、政治への信頼」だとする。これらの要素は、ニュージーランドにもスコットランドにも共通する。
翻って日本はどうだろう。日本の新型コロナウイルス対策は、台湾、ニュージーランドには及ばないが、スコットランドに比較すればはるかにうまくいっている。にもかかわらず、ギャロップが6月上旬に19か国で行った世論調査によると、自国政府は新型コロナウイルスにうまく対処していると考える日本人は34%で、調査した19か国中最も低かった。これとは別にケクストCNCが7月中旬に日本、米国、英国、ドイツ、スウェーデン、フランスで1,000人ずつ、計6,000人を対象に行った調査では、安倍晋三首相(当時)の評価が6カ国で最も低く、経済的な不安を感じている人の割合は日本が一番高かった。自国リーダーのコロナ危機対応に対する国民の評価を、「うまく対応できている」と答えた人の割合から「対応できていない」と答えた人の割合を引いて数値化したところ、ドイツのメルケル首相がただ1人うまく対応できているという評価が大きく+42ポイント、スウェーデンのロベーン首相が±0、フランスのマクロン首相-11ポイント、英国のジョンソン首相-12ポイント、アメリカのトランプ大統領-21ポイント、日本の安倍首相はマイナス-34ポイントだった。ケクストCNCの調査対象6か国中、新型コロナウイルス感染者数が最も低いのは日本である。ロックダウンも行われず、緊急事態宣言終了後の日本政府の政策は明らかに経済優先に走っている。にもかかわらず、日本国民の政府に対するこの評価はいったい何だろう。
ニューズウィークが台湾の防疫成功のカギとして挙げたスピード、透明性、政治への信頼が日本にはなかったからだ、と私は思う。中国からの観光客が落とすお金、習近平主席の国賓としての来日、オリンピック・パラリンピック開催に未練を残して初動が遅れた。専門家のご意見、専門家のご意見と言いながら専門家会議の議事録さえ残さなかった。経過の議論を公開せず、唐突に政策を打ち出して不要な混乱を招いた。困った人に30万円と言いながら、あっと言う間に一律10万円になった。唐突に小中高校に休校を要請し、反発が出ると「要請」したのであって、実行するかどうかは地方の判断だと言う・・・こうした事例は枚挙にいとまがない。
現在のように社会全体が大きな困難に直面するとき、政治のリーダーや役人が、民衆を混乱させずにリードできるかどうかは、彼らが平時から国民の信頼を勝ち得ているかどうかにかかっている。嘘をついて恥じらいもなくしらを切り通す政治家、政治家の嘘を守るために保存すべき記録を廃棄する役人に、国民の信頼を得ることはできない。過去数年間は、記録を廃棄するどころか、都合の悪い記録は残さないという無法がまかり通っている。緊急事態に立ち至ったとき、そういう政治家や役人が何を語っても、国民はどこかに嘘があるのではないか、われわれだけに犠牲を強いておいて、どこかに甘い汁を吸っているやつがいるのではないかという疑念を抱く。疑心暗鬼と有効な対応策の欠如がパニックを引き起こす。危機は今も私たちの足の下にある。誰も経験をしたことのない現在の状況の下で、必ず成功する施策などありはしない。失敗したとき、落ち着いて、諦めずに試行錯誤を繰り返すためには、みんなの信頼が不可欠だ。先行きが不確かな事態でこそ、リーダーの信頼がものをいう。
孔子は弟子の子貢に政治の要点を聞かれて「食を足し、兵を足し、民之を信にす」とこたえた。どうしてもこれを満たせないときはどうするかと重ねて聞かれ、孔子は答える。まず、兵を、ついで食を去れ、人はいずれ死ぬものであるが「民信なくんば立たず」と。孔子の時代とは異なり現代の日本では政治家を選ぶのは国民である。信頼できない政治家を選んでいるのは私たちだ。政治家の嘘も、役人の厚顔な忖度も、もとはと言えば信に足る政治家を選んでいない私たちの責任である。新型コロナウイルス騒ぎはこれまではっきりとは目に見えなかった日本の国政、地方自治の衰退を図らずも白日のもとに晒した。ポピュリズムがアメリカやイギリスだけのものではないということを知らしめ、それが国民生活にとっていかに危ういものであるかを明らかにした。
感染に対する関心が低くなるにつれてこうした問題もまた水面下に沈んでいくことを私は危惧する。喉元過ぎれば熱さを忘れ、考えたくないことは何でも水に流すのは、私たちの国民性だなどとしたり顔で言っている場合ではない。私の耳には、バベルの塔が崩れる音が聞こえる。新型コロナウイルス感染拡大は天災のようなものだったが、私たちがそこから新しいことを学び、私たちの誤りを正し、将来を切り拓いていくことができるなら、それは天啓にもなりうる。