2020.10.23
10月からインフルエンザの予防接種が始まった。例年、この事業は医師会にお任せしてきたが、今年に限り、世田谷区医師会のご厚意で松沢病院でも予防接種ができるようにしていただいた。松沢病院に通院する精神疾患の患者の中には、他の医療機関を受診していない人がたくさんいるからだ。そういう人は、大抵、インフルエンザ予防接種なしで一冬を過ごしてきた。ただし、今年はそうはいかない。新型コロナウイルス感染が収束する兆しも見えない中で、インフルエンザが一緒に流行し始めたら収拾がつかなくなる。ところが、いざ接種開始となって、生活保護の患者さんにはワクチン接種の公費助成がなく全額自己負担だということが判明した。全額自己負担だと5000円近くかかる。生活保護の患者さんに負担できるだろうか。あるいは、生活費を削って負担しようという気になるだろうか。
新型コロナウルスにせよ、インフルエンザウイルスにせよ、病原体はすべての人に同じように感染力を持つものではない。感受性の高い人がより大きなリスクを負うことになる。高齢者のインフルエンザ予防接種が全額助成されるのは、高齢であることが感受性を高めるからである。では、高齢者ではない生活保護や障害年金に頼って生活する精神障害者はどうだろう。統合失調症の患者は一般の人に比較して20年も平均余命が短い。10年分は自殺が多いため、あとの10年は合併する身体疾患が多いためである。呼吸器、循環器に合併症が多い精神障害者は、インフルエンザにも新型コロナウイルスにも感受性が高い。さらに、精神障害の有無にかかわらず、経済力がないという事実そのものが感染症への感受性を高める。気持ちよさそうなソファーで愛犬を撫でながら「ステイ・ホーム」とほほ笑むような人は、食事の時間になれば台所でおいしい食事が調理され、快適なバスルームで清潔をたもち、気持ちの良い寝室で眠る。買い物に出なくとも、通信販売で全国からおいしい食材が手に入る。でも、六畳一間、ふろ無し、小さなキッチンだけというアパートで単身生活をしている人が家にこもるのはとても大変なことだ。料理のスキルがあったとしても、小さなキッチンでできることには限りがある。通販で食材を集めることも、経済的な余裕があって初めてできることだ。結局、単身で暮らす生活保護の精神障害者は、いやでも人込みで外食し、自分で買い物に出なければならず、ふろに入りたい日は銭湯に行かなければならない。ステイ・ホームでは生きたいけないのだ。不特定多数の人との接触が増えれば感染機会も拡大する。高齢ではなくても、生活保護や障害年金だけで暮らす精神障害者はインフルエンザについても新型コロナウイルスについても、非常に感受性の高い人たちなのだ。
新型コロナウイルスとインフルエンザの同時流行は、社会にとっても医療機関にとっても大きな脅威である。この春、新型コロナウイルス感染が拡大して以来、松沢病院を受診する人の中に発熱と感冒症状がある人があれば、発熱外来に回っていただき、PCR検査を行ってきた。しかし、現在は、PCR検査と同時にインフルエンザの検査も行っている。新型コロナウイルス感染でPCRが陽性になる時期と、インフルエンザ検査が陽性になる時期がずれているので、同時に検査を行っても見落としがないわけではない。併発した場合の処置、検査時期による検査精度の問題など、病院の医師、看護師はこれまで以上に神経を使うことになる。どんなに神経を使っても混乱が起こるが、ワクチンのあるインフルエンザはある程度予防が出来る。今のようにみんなが感染に気をつけていればインフルエンザの爆発的大流行は防ぐことができる。そうであるなら、必要な人に公費でインフルエンザの予防接種を実施することは合理的な行政判断ではないか。今のところ、これを認めているのは23区内では新宿区のみである。これは単なる福祉の問題ではない。感染拡大を防ぐための社会防衛でもある。生活保護受給者が感染すれば、豊かな人とは比較にならない困難と苦しみに出会う。しかし、感染の不幸は貧しい人たちにとどまらない。こうして生じたクラスターはたちどころに社会階層の境界を越えて社会全体を巻き込むからだ。
小泉内閣のころから、持てる者をより豊かにすればそのおこぼれが下々まで及んで社会全体が豊かになるという主張がまことしやかに叫ばれた。あれから今日までの短い歴史は、それが正しくなかったことを実証している。にもかかわらず、同様の経済政策が続き、先進諸国の中で比較的貧富の差が小さく、社会階層の分断が小さかった日本社会に軋みが生じている。大統領選で混迷を極めるアメリカ社会のあり様は、近未来の日本だと気づくべきである。大きな富を独占する人が支配し貧しい人に施しをする国より、貧しい人も応分に社会貢献し、みじめにならずに暮らせる社会の方が良いと私は思う。そういう社会は、経済効率が悪いのだという人がいる。今日の北欧諸国のあり様は、そうした指摘が明らかに誤っているということを示している。憲法第25条はすべての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利があり、国はそのための支援を行う義務があると定めている。生活保護受給者への予防接種公費助成は施しではない。この国で暮らすすべての人の権利である。