2018.08.01
『此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀(にせ)綸旨 召人 早馬 虚騒動(そらさわぎ)』、に始まる二条河原の落書は、1335年、建武新政のさなか、京都鴨川の河原に掲げられたと伝えられています。落書はこれに続けて、建武新政後の混乱した世相を皮肉る合計88の『ハヤリ物』挙げ、『天下一統メズラシヤ 御代ニ生テサマザマノ 事ヲミキクゾ不思議ナル 京童ノ口ズサミ 十分ノ一ヲモラスナリ』で終わります。いったいどんな人が書いたのでしょう。下々の生活の様子から内裏のありさま、大道の出来事から役所の中のやり取りまで生き生きと描写する見聞の広さ、その一々を絶妙な節回しで皮肉り倒す風刺眼の鋭さはただの京童というわけではなさそうです。『天下一統メズラシヤ』云々というのですから、室町幕府崩壊までのごたごたを生き抜き、それなりの年齢を重ね、町民の暮らし向き、内裏や武家の内情にも通じた人だったのでしょう。
さて、『此頃都ニハヤル物』、私の周りを見回せば、「無差別殺人、特殊詐欺、忖度、斟酌、虚偽答弁、捏造、隠匿、にわか健忘、パワハラ、セクハラ、引責辞任・・・」次々挙げればきりがありません。近々行われると噂の内閣改造があれば、『キツケヌ冠上ノキヌ、持モナラワヌ杓持テ、内裏マワリヤ珍シヤ、賢者カホナル伝奏ハ、我モ我モトミユレトモ、巧ナリケル詐(いつわり)ハ、ヲロカナルニヤヲトルラン』といった様相は、おかしいほど昔のままです。
さて、ここまでは少し長すぎた前置き。今回、私が考えてみたい、『此頃都ニハヤル物』は、「虐め、虐待、第三者委員会、研究、病院、倫理委員会」です。最近、テレビを見ていると、いじめによる子供の自殺、親の虐待による子供の死亡がニュースにならない日はありません。そのたび、いじめを見逃した、虐待を認識しながら有効に対応しなかったという理由でマスコミの集中砲火を浴びる校長、教育長が異口同音に口にするのは、第三者委員会に調査をゆだねるという言い逃れです。
一方、松沢のような大規模な病院の院長をし、いくつかの学会の理事をしていると、ここ数年、『倫理委員会』という言葉を聞かない日はありません。医療の世界でも問題が起こると、第三者委員会が設置されますが、その際、倫理委員会の事前承認があったかどうかは重要な論点の一つになります。毎日新聞が人工透析中止の問題を取り上げた時、鬼の首でも取ったかのように、医師の判断が倫理委員会の承認を得ていなかったという点を強調していました。さて、第三者委員会や倫理委員会の弊害、というのがこのコラムのテーマです。
第三者委員会というものがいつごろからはやり始めたのかはよく知りません。日本弁護士連合会の「企業等不祥事における第三者委員会ガイドライン」は、2010年に作成されているのでたぶん、この前後から増加してきたのでしょう。医療の業界でも、2014年、群馬大学付属病院腹腔鏡手術後8人死亡事故、同年、千葉県がんセンター腹腔鏡手術死亡問題が公になった時、大学や病院が第三者委員会を設置して徹底した調査を行う、と発表しました。しかし、何かというと第三者委員会、というやり方は、本当に正しいのでしょうか。私には、第三者委員会の設置をもって、議論を停止し、マスコミの批判を封じるための盾に使われているだけのような気がするのです。
自らの統計不祥事を検証する第三者委員会を、自分の役所の役人に仕切らせた厚労省の茶番は論外としても、自分たちで調べることも考えることもやめて、第三者に真相究明を丸投げする組織というのはどんなものでしょうか? 不祥事の処理を第三者にゆだねた時点で、自分たちの自浄努力を放棄し、自浄能力を停止していることにならないでしょうか。大学病院は、各診療科の教授による自治が強く、組織としてのガバナンスが難しい組織です。したがって、一診療科の不祥事に、病院長以下の執行部や、他の診療科の教授によって組織される調査委員会のようなものが首を突っ込むということが非効率で実効を上げることが難しい、ということはよくわかります。執行部のガバナンスが強すぎて、各診療科の自治を認めない大学病院は、大学病院としてのダイナミズムを失ってしまうだろうと思います。同僚同士で査問したりされたりするのが居心地悪いということもよくわかります。しかし、患者さんの命に係わる不祥事の調査や、判断、再発防止策の立案は、そうした居心地の悪さ、組織の限界を超えて、患者さんの健康と命を預かる医師として、自ら調査し、自ら判断し、自ら自分の身を律することなくしては、可能になりません。医療上のトラブルの処理を第三者に丸投げしてしまうと、面倒なdue process が増えるだけに終わります。医療、研究分野における面倒なdue process は、悪質な違法行為を防ぐには役立ちますが、質の良い医療や研究の足を引っ張ります。医療は、どこまで行っても医師対患者、人間対人間の問題だからです。研究者の行動を不要な手続きで縛れば、そのこと自体が研究の足かせになるからです。
病院の倫理委員会は、医師の研究や難しい医療上の判断をするための組織です。第三者委員会のように、不祥事が起こってから設置されるのではなく、起こる前に正しい判断をしようというのが設立の目的です。しかし、私は、この倫理委員会についても、不祥事の後の第三者委員会と同様の欺瞞を感じます。松沢病院の井藤佳恵医長と二人で、老年精神医学雑誌という学会誌に、『モラルチャレンジ』の連載をしています。私たちが日々の臨床で出会う道徳的に難しい課題を、若い医師や看護師、PSW等と話し合って解決していくプロセスを論文にしています。ところが、それを見ていた若い医師が、「ほかの病院では、こういう微妙な問題は倫理委員会に任せて、現場の医師が悩まないで済むようにしているんだよね。それが今様のやり方なんだよ」と言ったというのです。この連載をしていてつくづく思ったのですが、精神障害の患者さんの自己決定を支援するためには、患者さんの身に起こる様々なリスクを、患者さんと医療者が分かち合って試行錯誤することが重要です。倫理委員会でエビデンスを調べ、倫理原則に照らして正しいと判断した治療法でも、患者さんと関係者の試行錯誤の過程を抜きにしたら、単なる押し付けになってしまいます。その結果に患者さんが満足することはないし、私たちがそのプロセスから学ぶこともありません。同じような問題が起こったら、再び自らの思考を停止し、倫理委員会に判断をゆだね、その結果を盲目的に実行することになるでしょう。医療者は同じことを繰り返せば済みますが、自分の大事な人生を倫理委員会に決められてしまった患者さんにとって、その決定が人生を非可逆的に変えてしまうことだってあるのです。
研究計画における倫理委員会の役割も、不祥事のたびに強化されてきました。現在、患者さんを対象とした研究を行うことは、非常に難しくなっています。倫理委員会を突破することが難しいし、そもそも、開業医や地方の小病院に勤務していると、倫理委員会に諮ることが難しい、研究が複雑になれば大学などの大きな組織の倫理委員会に判断をゆだねる必要がありますから、慣れない人は、そのプロセスでくたびれてしまいます。一方で、一旦倫理員会の承認を得ると、水戸黄門の印籠よろしく、その過程でどんなトラブルが起ころうと、まっしぐらに研究が遂行されます。自分たちで考えず、判断せず、倫理委員会の決定に従ったのだから、責任を問われることはない、という医療や研究なら、ロボットとコンピュータで十分です。自分の頭で考え、自分の心で苦しみ、その思考や苦しみの中に患者さんへの共感をはぐくむ医師、研究者を育てたいと私は思います。
間もなく終戦記念日です。敗戦後70年を経過してなお、近隣諸国と戦前、戦中の問題について感情的なしこりが解けません。加害者は忘れても、被害者はなかなか忘れません。加害者が、被害者に向かって、いい加減にしろと言ってしまったらおしまいです。私たちだって、東京大空襲や原爆があったからこそ、それ以上の戦死者を出すことが防止でき、日本が民主主義国になったのだといわれても釈然としません。いまだに、『唯一の被爆国として』という枕詞なしに、自分たちの平和への願いを世界に発信する力を持ち得ていないのはなぜでしょう。いささか、こじつけめいていますが、私は、第三者委員会に判断を丸投げして自分たちは何も考えないという思考パターンのせいだと思います。東京裁判に判断をゆだね、内心、いろいろな思いはあっても、戦争責任についてはこれにて一件落着、あとは一億総ざんげで責任をあいまいにし、戦争を指導した支配層を温存し、進め一億火の玉だ!という戦時中の標語そのままに国民を叱咤して奇跡の復興を成し遂げました。
日本国憲法は、その前文に次のように唱っています。『われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。』
国が豊かになった今こそ、私たちは、自分たちの頭で考え、自分たちの良心に従って行動する規範を回復しなければなりません。○○ファーストに喝采する人たちは、みんなが『おらがファースト』の社会がどうなるかをよくよく考えてみるべきでしょう。