2016.08.16
【相模原事件をめぐって】
相模原の障害者施設に元職員が侵入し、入居者19人を刺殺、26人を負傷させるという、戦後日本の歴史に汚点を残すような大事件が起こりました。英米のマスコミは言うまでもなく、ロシアの国営放送までが翌日にこの事件を報じ、こうした大量殺人は、日本では極めて珍しいというコメントをつけていました。この事件は、近年、大量殺人のような事件とは縁遠かった日本の社会を、文字どおり震撼させました。
事件には、いくつかの特徴がありました。第一に、1人の被疑者が、夜間に障害者施設に刃物を持って侵入し、自分では身を守ることができない入所者を次々と襲い、多数の死傷者を出すという未曾有の惨劇だったことです。第二に、被害者は全員、心身に重い障害を持つ人であり、惨劇の現場がこうした障害者をケアする施設であったこと、さらに、被疑者がこうした重い障害を持つ人を殺す、という行為に、一種の確信を持っていたらしいことです。そして第三には、被疑者には精神保健福祉法による措置入院の既往があり、その理由になったのがこの大量殺人の予告に等しい行為であったことです。被疑者は事前に衆議院議長宛にこの殺人を予告めいた文書を手渡そうとしために、警察が被疑者の存在とその意図を事前に把握することとなり、その予告事件により被疑者が精神科の病院に措置入院していたという事実が報道されていました。措置入院決定後、2週間足らずのうちに措置解除がなされ、被疑者は退院していました。
【事件が与えた衝撃が意味するもの】
殺人事件に限らず、日本の社会は、これだけの経済規模と人口を持つ国としては、ほとんど例外的と言ってもいいほど、凶悪な犯罪の少ない国でした。そこに、この事件です。私にとって、この事件が衝撃的だったのは、今まで当たり前だと思っていたこの国の安全が、当たり前ではなくなりつつあるのではないかという漠然とした不安が、現実のものになったということに起因します。事件後、施設の安全対策の不備を指摘する声がマスコミの中にありました。ガラスなどすぐに破られるのだから、安全確保のためには、鉄格子のように外部から侵入できないような構造にすべきだったと、真顔で言い募るテレビのコメンテーターがあり、わが耳を疑いました。鉄格子の中に隔離することによってしか、障害者の安全を図れないのだとしたら、いったいその安全にどれほどの価値があるのでしょう。
欧米の都市では、目抜き通りのデパートでも、営業時間が終わるとショーウィンドーの外側に鎧戸が下ります。夜間に、ガラスを破壊され、侵入されるのを防ぐ為です。最近まで、日本ではそういうことはありませんでした。私たちの社会は、世界中に類を見ないほど安全な社会だったのです。ところが昨今、宝石店などに暴力的に押し入る強盗事件が増えています。私たちの社会の安全が少しずつ蝕まれている、社会の安全の基盤となっていた何かが目に見えないところで少しずつ崩れていると感じていたのは私1人でしょうか。危険だから鉄格子をつけろ、といった短絡的な反応をするのではなく、私たちの社会の安全、私たちの社会への信頼感を揺るがしているものが何なのかを考え、それに対する抜本的な対策を考えない限り、こうした問題の解決に近づくことはできません。
被害者が生活していた世間から隔離された施設のありよう、加えて、障害者を殺害する動機に関する被疑者の確信は、私に、凶悪犯罪に対する怒りだけでは割り切れない、居心地の悪さ、さらに言うなら良心の呵責を引き起こします。
新聞の報道によれば、被疑者は、重度の障害を持つ人を抹殺するという考えについて、「ある日、ヒットラーの思想が降りてきた」と述べているそうです。周知のとおり、ナチスドイツは、心身に重い障害を持つたくさんの人をガス室で安楽死させました。しかし、こうした政策は、ヒットラーが1人で決定したものではありません。高名な法学者や精神医学者が政策決定に関与し、なによりも、多くの国民がこれを否定しなかったからこそ、こうしたおぞましい政策が実行されたのです。さらに言うなら、日本においても、ナチスドイツの政策に倣って国民優生法が作られ、この法律は終戦後も、優生保護法として長く機能し続けたのです。もちろん、日本では、障害者の断種が行われたことはあっても、障害者を抹殺するといった蛮行は行われませんでした。しかし、「生きていても意味のない命がある」、という悪魔のささやきは、決して精神病的なものではなく、油断すれば誰の心の中にも生じるものだと私は思います。
今回の事件が不気味で衝撃的なのは、私たちが普段は理性によって押さえ込み、そんなものの存在さえ否定している醜い欲求を、事件の被疑者は声高に主張し、あろうことか実行に移してしまったからだと思うのです。
精神科医である私は、これまで、心身に重度の障害を負う人たちが生活する、こうした施設のことをほとんど知りませんでした。知ろうとも思いませんでした。自分の力で生きていけない人々の生活について、これまでほとんど関心を持たないで生きてきました。職業上、普通の人よりずっと、そうした事柄に気づくチャンスがあったにもかかわらず、です。そうであるなら、心身に重い障害を持つ人たちへの私の無関心は、実は、この容疑者の極端な主張と本質において大差がないのではないかという危惧が、私を不安にしています。こうした感覚は、私1人のものでしょうか。この事件を特異な現象とし、警察や精神科の強制医療によって社会から排除しさえすれば、こうした犯罪は防ぐことができるのだと主張したくなるのは、こうした不安の裏返しではないでしょうか。マスコミの報道にも、関連団体の反応にも、厚生労働省の対応にもそうした後ろめたさを早く払拭したいという無自覚な衝動が働いているような気がする、と言うのはうがちすぎでしょうか。
あるがままの人間の欲望は、少なくとも私たちが生きている文明社会の道徳に照らせば、美しいものではありません。私たちの遺伝子は、生存競争を戦い抜き、自分の遺伝子を残すために淘汰され進化してきた極めて利己的な行動原理と結びついているはずです。教育によって、訓練によって、教養によって、理性によって、道徳によって、何よりも、理想を求める私たち不断の努力によって、人間の原始的な本能を律することができなければ、私たちの社会から争いが消えることはないし、生活弱者の安全も安心も確保できません。
最近、日本の社会では、障害者に対する差別だけでなく、民族的な偏見や経済格差に基づく差別的な発言や行動を公然と行う人が目立つようになっています。SNSのような顔の見えない情報発信手段の急速な普及が、こうした未熟で粗野な意見の拡散を容易にし、その情報を受ける側の資質の変化ともあいまって、数年前なら、恥ずかしくて言えなかった様な事が平気で言える社会になりました。ヘイトスピーチを条例で規制するのは、社会の進歩ではなく、そんなことまで条例で規制しなければならなくなった社会の劣化の象徴です。細かい法律の規定は、社会道徳の水準と反比例するものです。
【措置入院制度とはどういうものか】
措置入院は、知事の命令によって精神に障害のある人を強制的に入院させて治療する制度です。入院の要件が、『自傷他害の恐れ』となっているために、あたかも、周囲に危害を与える恐れがある精神疾患患者を隔離することを目的とする制度であるかのように論じられますが、これは誤解です。
精神保健福祉法は、本人の意思によらない入院を医療保護入院(応急入院)と措置入院(緊急措置入院)に分けます。医療は原則として本人の希望によって提供されるサービスですから、可能な限り本人の意思に基づいて治療を行うことが原則です。しかし、精神疾患の場合、患者さんが自分の病気を否定し、治療に同意しないことが少なくありません。こういう状況で、入院しなければ適切な治療ができず、そのまま放置すれば患者さん自身に著しい不利益が生じる恐れが大きい場合は、強制的な入院治療を行います。しかし、本人が同意しないのに病院に入院させることは、憲法が保障する基本的人権を制限することを意味します。そのため、こうした本人の同意に拠らない入院については、法的な手続き、due process of laws が必要です。これが、医療保護入院と措置入院の制度です。
医療保護入院は、入院しなければ最低限必要な治療が行えないのに、本人がそれに同意しない場合に、精神保健指定医と家族等の同意によって入院を決定する制度です。一方、措置入院は、知事の命令による強制入院で、医療保護入院に比較して、患者さんの基本的人権に対する制限が大きくなります。さらに、措置入院の場合、入院の前提となる診察についても、本人の意向に関わらず、知事の命令で強制することができます。患者さんが自宅にこもって診察を受けることを拒んでいても、警察の手を借りて医師が家の中に入り、診察をすることができるのです。つまり、措置入院は同じ非自発的入院である医療保護入院と比較して、遥かに大きな公権力の介入を伴います。そのために、措置入院の要件については、精神に障害があって入院治療が必要であるということだけではなく、放置すれば自分の身体を害したり、周囲の人に危害を加えたりする恐れがあると認識される場合のみに制限されているのです。措置入院に、社会防衛的な側面があることは否定できませんが、少なくとも他害行為を防ぐことを主たる目的とした制度ではなく、『自傷他害の恐れ』を要件とするのは、精神疾患に対する強制的な入院治療が無制限に行われないようにするための制約なのです。
【精神科臨床における人権擁護】
精神科医にとって、患者さんの人権を守る、ということは、医療行為の一部だと言っても良いぐらい重要なものです。しかし、臨床精神医療の現場で患者さんの人権を守る、ということは、言葉で言うほど簡単なことではありません。ここまで述べてきた、強制的な治療について考えてみると、患者さんにとっては、一方に自由に生活したいという権利(自由権)があり、もう一方に健康で文化的な生活をするために、社会から必要な支援を受ける権利(社会権)があります。どちらの権利も、憲法が保障する基本的人権の重要な構成要素です。臨床の場では、患者さんの自由権と社会権のバランスを、その時、その場の状況に応じて考え続けなければなりません。
さらに、患者さんは社会に孤立して住んでいるわけではありませんから、患者さんの自由の尊重は、周囲の人の基本的人権との軋轢を生みます。たとえば、アパートで、大声で独語している統合失調症の患者さんが入院を拒めば、隣の住民の環境権が脅かされます。そのために、隣の住民が出て行ってしまえば、大家さんの財産権が侵害されます。もっとも深刻な場合、患者さんが被害妄想に基づいて殺人事件を起こせば、患者さんの自由権の代償に、罪のない人の生存権が否定されるというとんでもない事態だって起こりえます(ただし、今回の事件がこれに当たるかどうかは、彼の行動が病的な動機による病的な行動であったか否かが分からなければ判断できません)。患者さんの自由権と、周囲の人の人権、場合によっては社会全体の安寧とのバランスをとることは、患者さん個人の内なる自由権と社会権の葛藤に対処する以上に難しいことです。
私がまだ若かったころ、若気の至りで、患者さんの人権を守ろうとするあまり、周囲の人への配慮を欠くことが稀ならず起こりました。けれども、患者さんと2人で、社会全体を敵に回して戦ってみても勝ち目はありません。負け戦のつけは患者さんに集中するので、結局、私の戦いは、自己満足のために患者さんを傷つける結果に終わることばかりでした。
精神に障害を持つ患者さんの多くは、私たちが想像できないような厳しい現実の中で生活しています。家族や周囲の社会の人たちとの微妙なバランスをとりながら、患者さんが平穏な社会生活が送れるように支援することは、精神医療の非常に重要な機能だと、精神科医として40年近い経験を経た今、私は確信しています。
【相模原事件への対応】
厚生労働省はこの事件を受けて、被疑者の措置入院とその解除の状況を精神医学的に検証することと事件の再発防止を目的として、有識者検討会をスタートさせました。
この事件については、制度の欠陥を事件に関連付けて論じる前に、被疑者の診察や診療録の精査を通じて事実関係を明らかにすることが重要です。今回の事件で考えられることは、大麻を含む違法な薬物使用による急性器質性症候群、薬物使用を繰り返したことによる慢性期質性症候群(衝動制御の障害、性格変化等を含みます)、身体的・心理的薬物依存、あるいは、別の精神疾患の並存など、考えられることがたくさんあって、それを解明せずに制度がうまく機能したかどうかの検証などできないからです。厚生労働省の検討委員会の機能は非常に重要です。
措置解除後のフォローアップ体制に関する議論の重要性については異論がないだろうと思います。措置解除後のフォローアップについて、厚生労働省が意図しているのは、退院後、外来治療の継続を担保するような強制力のある制度に関する検討のようですが、臨床の場では、2013年の精神保健福祉法改正以後、措置患者退院以前の段階から問題が起こっています。
措置入院は、厳格な行動制限を伴い、措置中に患者が離院して他害事件を起こせば病院には大きな民事上の責任が生じます。そのため、一般的には、措置を解除した後、医療保護入院、任意入院など、段階的により制限の少ない入院形態に変更して社会復帰の為の治療を行うことになります。ところが2013年の精神保健福祉法で、家族が同意を拒否すると医療保護入院ができなくなりました。このため、積極的に治療に関与してくれる家族がいない患者さんの措置解除が難しくなりました。従来は、必要なら市区町村長の同意による入院ができたのですが、前回の法改正で、家族があり、その家族が入院に同意しなければ、市区町村長同意による入院はできなくなりました。こうなると、家族から見放された患者さんは必要以上に長期間措置入院の行動制限を甘受し、医療機関側は措置患者の事故に対する賠償責任というリスクを背負いながら、不自由な体制で社会復帰支援を行わなければならなくなります。措置入院に伴う人権の制限を徐々に解除しながら社会復帰に繋げ、外来治療の継続を担保するような制度全体のコンセプトの見直しが必要です。
事件後の報道で、措置解除が早すぎたのではないか、という疑問の他に、退院後の警察との連携の不足を指摘するものがありました。措置入院制度にフォローアップのシステムがない、ということは確かに検討すべき課題なのですが、そのフォローアップの中に、退院する事実を警察に連絡せよとか、居住地を知らせよとかいう事を含むのであれば、それは、現在の措置入院の概念を根本から変えることを意味するものであり、精神保健福祉法制全体のグランドデザインの変更を意味します。
警察は、事件を起こしていない人を、事件を起こしそうだという理由で拘束することはできません。精神科医は、患者が如何に危険な意見を表明し、それを行動に移す可能性が高いと思われても、それらが精神の疾患に起因することであると判断できなければ、非自発的入院を決定することはできません。それは、どちらも、国民の基本的人権に関わる問題だからです。私たちは自由のために一定のリスクを負わねばなりませんが、同時に、そのリスクが許容範囲におさまるように、慎重な制度設計をしなければなりません。ことは、憲法が保障する基本的人権の制限にかかわる問題です。「こんな事件はけしからん、二度と起こらないようにしろ!」、「誰の責任かを明らかにしろ!」といった激情に流されて拙速な議論をしていいような話ではありません。
【終わりに】
今回の事件は、大量殺人という惨劇が直接もたらす不安や恐怖以上に、私たちの心を不安定なものにしています。それは、被疑者の言動が、私たち誰もが抱える心の醜い部分を、はからずも白日のもとにさらけ出してしまったからだと思います。事件を特異な人による特異な行動として矮小化し、こうした特異な人を、強制的な精神医療や警察権の行使によって社会から排除すれば再発は防げると考える方が気持ちは楽です。マスコミの論調も、政府の対応もそういう方向に向かっています。しかし、そうした対処は間違っている、と私は思います。
私たちの社会の歪みが拡大しているという兆しは、あちこちに見られます。しかも、こうした社会の歪みの拡大は、日本だけでなく、欧米先進諸国に共通して見られるように思います。アメリカの共和党大統領候補指名選挙やイギリスのEU離脱国民投票の経過と結末、大陸ヨーロッパ諸国における民族主義的右翼政党の台頭などを見ると、今までだったら社会をリードするオピニオンリーダー達には恥ずかしくて言えなかったようなことを、平気で、しかも声高に叫ぶ人が現れ、そうした人たちが不満を抱いた大衆の支持を得て社会の大勢を制するようになっていると考えざるを得ません。
相次ぐテロ事件を受けてフランス政府は戒厳令の長期化を決定し、国民はそれに反発することもありません。戒厳令下で、警察や保安部隊は、令状なしに個人の住居に入り、テロリストと疑われた人のプライバシーを侵し、あるいは拘束することができます。無差別なテロが続いている状況で、市民の権利を守れと言っても、「では、テロで殺された大勢の人の人権はどうなるのだ!」、という大衆の声に押しつぶされてしまいます。日本でも、今回のような大量殺人事件が起これば、殺人事件を防ぐ為の施策に反対する人はいなくなります。しかし、殺人事件を防ぐ為に、「事件を起こしそうだ」というだけ理由で警察が監視を強めたり、精神科病院に強制入院させたりして、個人の自由を束縛する行為がより簡単にできるような制度が作られて良いはずはありません。
この凄惨な事件をきっかけに私たちが考えなければいけないのは、公権力による個人の監視機能をどうやって高めるかではないはずです。事件に対する感情的な反応に急かされて、不自由な社会を作るのではなく、私たちの社会が失ってしまったものを見つめ、新しい価値を創造し、公権力による強制力を最小にしてもなお安全な生活を取り戻すことを考えなくてはなりません。そのためには、私たちが、どういう社会、どういう国、どういう世界を作ろうとしているのかについて、もう一度まじめに考え直す必要があるだろうと、私は思います。