Vol.06 69回目の終戦記念日に寄せて

2014.08.18

 2014年8月15日、日本は69回目の終戦記念日を迎えました。69年前、成人として8月15日を迎えた人は、今年、89歳を超えているという計算になり、兵士として太平洋戦争を戦った経験のある人はとても少数になりました。1988年に私が認知症の治療を始めたころ、外来受診する男性の患者さんの多くは、兵役の経験を持ち、南方で、あるいは中国での従軍体験を持っていました。それから20年以上が経過した今日、認知症外来を受診する患者さんが語る戦争体験は、集団疎開であったり、親に手を引かれて逃げ惑った空襲の体験であったりして、前の世代が持っていた戦争体験とは明らかに質の異なるものになっています。私は今年62歳ですから、これからの患者さんは、戦争体験どころか、戦後の苦しい時代の経験さえ、実体験として記憶していない世代になっていくのでしょう。
 1952年生まれの私にとって、太平洋戦争は決して、遠い昔の歴史の教科書の中の話ではありませんでした。私が生まれた年、サンフランシスコ講和条約によって日本は独立を回復しました。それまで日本は、occupied Japan として連合国の統治下にありました。南方で捕虜になった父が、祖国に帰って、まだたった 6年しか経っていませんでしたし、終戦間際に満州に派遣された母の次兄は、シベリアに抑留されて行方が分かりませんでした。私が物心ついた後でさえ、街を歩けば、白い軍服を着た傷痍軍人が、歩道に敷いた筵に座って、ハーモニカやアコーディオンを弾きながら物乞いをしている姿があちこちで見られました。
 私の父と従軍体験のある患者さんの共通点は、戦場での話をしないということでした。召集された年、訓練を受けた基地、派遣された場所、捕虜になった年、帰還した年・・・そういうことは詳しく語るのに、『派遣された場所』で起こったことを具体的に話す人はほとんどいませんでした。父の戦争話も、乗っていた輸送船が沈むところから始まり、アメリカ軍の艦船に救助される話、捕虜収容所での体験談で終わります。父は、輸送船が沈むまで、日本軍の兵隊としていくつかの戦場で戦っているはずなのですが、死ぬまで、自分の戦闘体験を語ることはありませんでした。
 音楽には全く関心の無い父が唯一口にするのは軍歌でしたが、父が口ずさむのは、勇ましい軍歌ではなく、むしろ厭戦気分あふれる歌でした。私が一番良く覚えているのは、日露戦争時代のラッパ節です。

大臣大将の 胸先に、ピカピカ光るは なんですえ、金鵄勳章か 違います、可愛い兵士の しゃれこうべ、トコトットット
名誉名誉と おだて上げ、大事なせがれを むざむざと、銃の餌食に 誰がした、元のせがれに して返せ、トコトットット
子供の玩具ぢや あるまいし、金鵄勳章や 金平糖、胸につるして 得意顏、およし男が 下がります、トコトットット

 母の戦争は、終戦後何十年も続きました。兄の行方が知れなかったからです。すでに、シベリアから帰還する元兵士がたくさんあり、中には、母が叔父の行方を捜しているといううわさを知って、我が家にやってきて作り話の情報を語り、何日も逗留したあげくに金目のものを持って姿を消すような輩も少なくありませんでした。それでも母は、懲りもせず、こういう人たちの話を聞き、父もそうした母の行動を黙って見ていました。私の子供のころのアルバムに、やせた女の子と2人で我が家の庭に立つ写真があります。その女の子は、こういう、偽シベリア抑留者が連れていた子供です。「すぐに、嘘だということが分かったけれど、この子がかわいそうで泊めてあげた」と母が話していたことを思い出します。母の懸命の努力の甲斐あって、叔父は終戦から2年目の冬、モンゴルの石切り場で死亡したことが確認されました。それでも、母の戦後は終わりませんでした。
 1991年1月、湾岸戦争が勃発しました。アメリカを中心とする国連軍は、緒戦からイラク軍を圧倒し、間もなく、ジープに乗った国連軍兵士に銃口を向けられながら、数珠繋ぎにされて無表情に歩くイラク軍捕虜の隊列がテレビニュースの画面に流れました。それは、母にとって、生々しい戦争の記憶を呼び覚ます正視に耐えない光景でした。国連軍に銃口を向けられ鎖につながれてとぼとぼ歩くイラク軍兵士の姿に、ソ連軍の銃口に追われながらシベリアに連行される兄の姿を見たのでしょう。

一列に砂漠を俘虜は曳かれ行くかく曳かれしか蒙彊に兄

 その年の3月、朝日新聞は「凍土の悲劇(モンゴル吉村隊事件)」という連載を開始しました。ソビエトの崩壊によって、シベリア抑留者に関する情報が明らかになり始めたのです。4月、モンゴル抑留死亡者1500余人のカタカナの名簿が新聞に掲載されます。母はその中に「モリオカ ショウジ」という名前を見つけました。叔父の名前は『正聲』と書いてマサナと読むのですが、めったに正しく読める人はいませんでした。母は、それまでに得ていた情報から、これが自分の兄に違いないと確信してあちこちに照会しました。3年後、1994年3月、厚生省からも、死亡者リストの『モリオカ ショウジ』は、『森岡正聲』の誤りであったという連絡が入ります。

褪せにける軍事郵便北満にりんだう青しと若き兄の字

 この年の夏、同人誌に載った母の歌を偶然に目にされた、民間の日本・モンゴル友好団体のご好意で、母は名古屋空港から日本の中古品だという危なっかしい飛行機でモンゴルに飛び立ちました。8月とはいえ、すでに雨交じりの冷たい秋の風が吹くモンゴルの荒野で、800余のプレートが並んだ抑留者墓地の中から、叔父の墓標を見つけ出すことができたのも、この友好団体の皆さんの協力があってのことでした。こうして、母は、終戦後49年を経て、兄の墓参を果たしました。

夏野花せめて一輪咲けよかしウランバートル兄逝きし野に

 戦争は、松沢病院の歴史にも大きな爪あとを残しました。特筆すべきは戦争中の死亡退院患者の数です。1937年に日中戦争が始まると、翌38年には死亡退院数が2倍になります。きっかけは、入院患者用給食の内容の変更でした。死亡者は増え続け1940年には352人、その後、いったん減少したものの、終戦前年1944年には418人、1945年には478人が死亡しました。入院患者の死亡退院は、終戦の8月を境にようやく減少に転じます。松沢病院の患者を救ったのは占領軍の援助物資でした。在院患者数は1944年度末でおよそ1000人、その後激減し、1946年度末には500余人になります(立津清順)。在院患者数と死亡退院者数を比較して見れば、松沢病院の中で何が起こっていたかは想像に難くありません。第14代松沢病院長、金子嗣郎先生の著書に引用された、当時の医局日誌には次のような記述が見られます。

1942年1月10日:今日、僕たちの患者は一日三匁の味噌をなめ、一方において国民の華と呼ばれる紅顔の少年が、快哉を呼んで(ママ)機体諸共、その生の身を敵艦の煙突に投げ入れて霧散する、涙の出るような厳粛な時代だ。・・・・せめて、一日を実力のある暮らし方で送ろう
1944年7月18日:一箇月前から昼食は毎日雑炊(味が良くない)。これに対する従業員側の評判は良くないが、患者側からは取り立てうるべき不平不満を聞かない。
1944年7月21日:・・・さなきだに八月から米の大減少、増えるは浮腫と死亡のみ
1945年7月12日:・・・最近は患者の遁走続出、結局食い物に困って帰宅するところを捕縛

 1983年、私が松沢病院に初めて赴任した時、当直医として回診すると、病棟の入り口で気をつけの姿勢で待ち構えている患者さんがありました。当直医と看護長が玄関に入るや、「○○病棟、総勢△名、全員異常ありません」と大声で報告してくれます。戦争中、男性職員が次々と出征していく中、比較的病気の軽い患者さんを看護助手として使っていたころの名残だ、と教えてくださったのは、先の金子嗣郎先生でした。
 太平洋戦争が歴史の中に風化しつつある今日、沖縄で、広島で、長崎で、東京で戦争被害を語り継ごうという市民の運動が盛んです。終戦記念日をはさんで、新聞でも、テレビでもこうした問題が取り上げられています。もちろん、戦争に家族を奪われた人々、街を焼かれた人々の体験を語り継ぐことは、日本の未来のためにとても重要なことではあるでしょう。けれども、私の心の底には、最後まで兄を思い続け、それを語り、それを詠った母よりも、何も語らなかった父の戦場体験のほうが、重く、深く澱のように堆積しています。雑炊がまずいと言って故郷に帰っていった松沢の職員より、不平も言わずに栄養失調で死んでいった患者さんの思いに、深い悲しみを覚えます。
 政府も軍部も、すでに敗戦のやむなしを知っていた時期に、叔父達兵隊を乗せて朝鮮半島から満州に向かった列車は、復路を空で走ったわけではありません。高級将校の家族や、そこで財をなした人たちやその家族を乗せて南下したのです。満州には、事情を知らないたくさんの開拓農民が棄てられたままでした。戦争は、双方の国に大きな災禍をもたらしますが、最も苦しんだのは、より貧しい人、より弱い人であり、そうした人々は声を上げることもなく死んでいきました。
 戦争はいつも、『国家の存亡』に関わる大義名分を掲げて始まります。『自衛のためだけ』に戦争をするというのは、為政者が望むときはいつでも戦争をするというのと、実は、何の違いもないのではないかと私は思います。為政者の暴走は国民が作ります。私たちの社会は、今、どこに向かっているのでしょう。20年後はどんな日本になっているのでしょう。青年たちに、人に語れぬ体験をさせない社会であればよいと切に、切に祈るばかりです。