2000年5月号 不整なかみ合わせの先に待っているもの

2000.5月号

 以前の病院での経験です。高齢の女性患者さんが脳梗塞の再発作で緊急入院しました。ベッドで仰臥しつつ、自由の利く方の手でしきりと口を指さしながら、悲しそうにうめき声をあげ、涙を流されます。脳梗塞の後遺症で思うように言葉が出ないため、何を訴えたいのか皆よく理解できません。一週間ほどして観察眼の鋭い看護婦さんが私を病棟に呼びました。一目見て脱臼と分かりました。何が得意技かと問われても、これと言っておはこを持たない私ですが、片側 370点の顎関節脱臼整復術だけは自信がございます。抜く手も見せず整復したとたん、患者さんが私の手を取って、うれし涙と言葉にならない声をあげられました。歯科医で良かったと思った一瞬でした。義歯の具合が悪いため、永らく流動食で過ごしていた方でした。患者さんはだんだん頻回に脱臼するようになり、しまいにはあくびをしただけで簡単に外れてしまう状態に陥りました。かまないためにそしゃく筋群が萎縮して、下顎骨すら吊っていられなくなったのです。歯が所々しか残っておらず、安定した咬合関係を失っているのに適正な義歯を入れていない患者さんは、顎を一生懸命偏位させ、残る僅かな歯でかんでいます。異常なかみ方です。このような患者さんに顎関節脱臼を来す方が少なくありません。正しいかみ合わせを維持することの大切さを痛感いたします。

平成11年度の歯科研修医は鶴見大学卒の鈴木小夜さんでした(平成12年4月末日研修終了)。10倍の応募者の中から選ばれた才媛です。残存歯が少なく咬合関係が失われ、顎関節脱臼を頻回に繰り返す患者さんを担当してもらいました。可及的速やかに義歯を作製し、調整が進んでかめるようになると脱臼はピタリと止まりました。
毎年、年度の後半に、院内で研修医の症例発表会がもたれます。院長以下のお歴々の前で、総ての研修医が自分の担当した特徴ある症例について発表する、いわばミニ学会です。突っ込んだ質問も浴びせられます。彼女は適正咬合の大切さについて朗々と発表し、質問にも凛々しく答弁いたしました。セコンド役である我々の方が、肩に力が入りました。当科で補綴に深く興味を抱き、母校に戻って更に研鑽を積むことになりますます。

 長野オリンピックの開会式で聖火の最終ランナーを務めた義足の外国人をご記憶でしょうか。あのように走れる義足を作るには整形外科医を初めとして多くの関係者の調整努力があったに違いありません。義眼で見えなくても、義足で走れなくても一般の方は仕方がないと考えますが、 義歯はうまくかめないと不満を訴えられます。皆さん、型を採れば義歯ができ、装着したその日から、天然歯と同じようにかむ能力がよみがえるとの幻想を抱いていらっしゃいます。神様がくれたものに優るものはありません。型さえ採れば入れ歯のような形をした「物体」は作れます。しかし、これをよくかめる義歯に変身させるには、患者さんにも作る側にも調整段階で根気が要求されること、義歯は装着して道のり半ばであることが理解されておりません。

 もう一度でいいから生野菜や漬け物をバリバリと食べたいと願う患者さんに数多く遭遇します。義歯製作は手間暇のかかる オーダーメードです。義歯完成を待たずに亡くなって、願いを叶えてあげられなかった患者さんを経験して参りました。身体が二つ、一日が48時間欲しいです。食欲は人間に最後まで残る欲です。‘食’を諦めて亡くなることだけは御免被りたいとつくづく願う毎日です。

歯科コラム