2001年7月号 歯科医療事故に至る一考察・心の余裕

2001.7月号

 対応の難しい患者さんをご紹介いただく日常を通して、事故やトラブルの起こる状況が見えてきました。以下は体験に基づき、想像力で味付けした、歯科臨床で事故に至るまでのフィクションです。
 ある晩、診療で疲れて帰宅したところ、些細なことから山の神と喧嘩になってしまいました。口では女性にかないません。こちらが暴力など振るわないのに、相手は言葉の暴力で迫ってきました。不愉快で熟睡できずに朝を迎えました。案の定翌朝、朝御飯の用意がされていません。食抜きで診療所へと向かいました。
 時間をたっぷりとり、意気込んでブリッジ形成を予定していた朝一番の患者さんが、いつまでたっても現れません。無断キャンセルされました。日本人は約束にルーズです。裏切られた気持ちを引きずりながら次の患者さんです。
 高価な私費の補綴物をセットの予定でした。ところが、患者さんは治療台に座ったとたん「あれからよく考えたのですが、保険でやっていただくわけにはゆきませんか」と言い出します。前回に言葉を尽くし、納得してもらったはずでした。既に補綴物はできあがっております。激高しそうになるのをこらえ、諄々と説明し直し、なんとかセットにこぎ着けました。気持ちが収まりません。数日前に雇ったばかりの若い歯科衛生士が気が利きません。患者さんとの応対でへまをやらないかと目が離せません。まるで国際電話で話しているように反応が鈍く、イライラがつのります。
 お昼に近づきました。簡単に抜けると思っていたC4残根が抜けません。挺子を掛けるそばからぼろぼろと歯が欠けてしまいます。10分しか時間をとってい なかったため、あとの患者さんが待合室に溜まり始めました。大観衆の見守る中でKOを喰らったピッチャーのように孤立無援です。人間の孤独さをひしひしと感じます。精神性の発汗を脇の下に感じつつ抜歯に集中していると、くだんの衛生士が電話を突き出します。
 「誰から?」
 「分かりません」。
 出てみると「先生でいらっしゃいますか。儲かるワンルームマンション投資のご紹介・・・・」
 こちらがどんな状態におかれているのか分かっていません。怒りを込めて電話を叩き切ります。「名乗らない電話は取り次ぐな!」空腹の影響もあり、穏やかな人間だと自認していたのに、声が大きくなってしまいました。電話という道具は無礼なものだと思います。
 お昼ごはん返上で、溜まった患者さんを夢中で診つづけました。歯科医師会の大事な会合が夕方に予定されており、普段より早く診療所を閉めなければなりません。気がせいています。
 予定した患者さんをやっとのことで診終えることができた終了直前に、歯茎が腫れて痛いという中年の男性が飛び込んできました。診れば、歯槽膿漏の末期でぶらぶらの犬歯が下顎に一本だけ残り、周囲が腫れています。指ではじいただけで抜けてしまいそうな歯です。にもかかわらず、「残り少ない歯だから、何とか残してくれ」と無理を言い張ります。
 普段より早く帰れると、衛生士達は既に後かたづけを終わっています。冷たい視線からは、仕事を終わりたい気持ちがありありと読みとれます。
 余裕のあるときなら、なぜ保存できないかを詳しく説明したでしょう。納得が得られなければ、とりあえず薬を処方して、患者さんが気が変わるのを待つのも一法でした。新患は既往歴にも注意を払うことを常ともしておりました。しかし、昨晩からのいきさつで、この日だけは応対が違ってしまったのです。
 「私は魔法使いじゃない。これは残せない。抜くしかない!」
 説明抜き、問答無用で麻酔注射を歯茎に突き立てました。直後からみるみる患者さんの状態がおかしくなりました。
 事故後、受診前に患者さんが記入した問診票をみると、心臓病、高血圧のところに○が付けてありました。

 私は時として、もりそばをたれを付けずに食べてしまうほど特別あつらえのせっかちです。子供の頃に熱中したテレビのアメリカンヒーロー達は、絶体絶命のピンチに陥ってもジョークをを飛ばし、悪漢どもをやっつけました。あのヒーロー達のように、経済的、時間的、そしてなんと いっても心の余裕を大きく持ちたいといつも願いつづけております。

歯科コラム