2008.3月号
ハイリスク患者への接し方、というテーマで各地の歯科医師会で講演をすることがあります。講演後に「高血圧患者の場合、収縮期血圧がどのくらいの値から、観血処置は控えるべきか」といった質問をよく受けます。正直、答えに困ります。その先生は優しい方なのか、麻酔注射や抜歯の手技は丁寧なのか、などが全く分からないからです。抜歯は往々にして恐怖と痛みを伴うことが多い処置です。極端な話、患者さんが全身的には全く健康な方だとしても、浸潤麻酔効果が不十分なままで乱暴に抜歯を行ったら、疼痛性ショックを引き起こすことも稀ではありません。その先生と患者さんとの信頼関係がどの程度形成されているか、が非常に重要です。
大学時代に新潟県の粟島という日本海に浮かぶ小島から、はるばる私のところまで抜歯に来られた高血圧の患者さんがいました。年配の女性で、土地のかかりつけの歯医者さんは、どこか大きな病院で抜いてもらったら、あとの補綴は引き受ける、と言うのだそうです。詳しい値は忘れましたが、電話では、上の血圧が200を超えることはなく、元気に農作業もしているとのことでした。抜くべき歯はグラグラしているらしく、さほどの難抜歯とも思えません。「昔からのなじみの先生なら、わざわざいらっしゃらずとも、そちらで抜いて大丈夫だと思うのですがねぇ」と言ったのですが、どうせ抜くなら、東京の大きな病院だと安心だ、と私とのご縁が生まれたのでした。
予約の日の午後、患者さんは両手に大きな荷物を抱えて、額に汗を浮かべて現れました。手づくりの農作物をお土産にもってきてくれたのでした。当時上越新幹線は大宮・上野間は開通しておらず、大宮から上野行き快速に乗り換えるには長い階段を何度か上り下りしなければなりませんでした。朝早く島から連絡船で本土に渡り、大きな荷物を両手に抱えて、はるばるお茶の水まで辿り着いたのです。東京の駅にもエスカレーターやエレベーターなどは設置されていない時代です。
小太りで日焼けした姿を見ただけで、抜歯には何の問題もないと確信しました。一応、血圧と脈拍はモニターしつつ、細い注射針を使用して丁寧に浸潤麻酔した後、歯周病が進んだ臼歯を2,3本、無事に抜き終えました。
「万が一何かあったら」を危惧なさる、医療の最前線の先生方の気持ちを理解しました。時は移り、有病者対応・訪問診療など患者さんのニーズが非常に高まってきました。大きな病院の中にある歯科というだけで患者さんは安心感をもたれます。何か心配な患者さんに遭遇なさった場合、大きな荏原病院に居る小さな我々のチームを思い出して頂ければ幸いです。お役に立てます。