2001.1月号
明けましておめでとうございます。本年も当科をよろしくお願い申し上げます。
本稿、20世紀からの続きです。
都立豊島病院から大学の歯科麻酔科に戻り、麻酔に、雑用に追いまくられる大学生活が再び始まりました。どちらかというと歯科治療より全麻をかける方に重きを置く歯科麻酔科の中で、インレーやクラウンがピッタリ適合すると喜びを感ずる私は、異端の存在でありました。豊島病院で経験したように、多くの人が手を出しにくい全身的合併症を有する患者さんの歯科治療をやりたい気持ちが次第に強くなりました。幸運なことに、当時の教授がそれを覚えていてくれました。
昭和61年、足掛け14年お世話になった歯科麻酔科から、発足したての障害者歯科治療部へと移籍になりました。全身管理 の側から治療する側へと移れたのです。同僚は小児歯科、保存科(歯内療法)から集められ、彼らの業を貰うことができました。狭窄した根管が拡大できた時の 喜びも感ずるようになりました。身障者の方はもとより、他の科で対応困難な患者さんが関東一円から吹き溜まるように障害者歯科に集まってきました。昼食が午後3時、4時にずれ込むこともしばしばなほど、夢中で診療しました。
移籍してしばらくすると、無歯顎の患者さんが障害者歯科に回って来ます。補綴の専門家が‘創る’義歯の方が、私の義歯よりも良いはずなのに、補綴科からも患者さんが回って来たのです。皆、何らかの全身的合併症を有しておりました。30歳半ばから補綴の勉強を思い立ちました。2年後輩の補綴の達人に教えを 乞うたところ、自分で義歯の重合までやる気があるのなら教えてくれると言います。技工士任せにせず、自ら義歯を創る度に何かがつかめるからだというのです。今考えると、新人であったなら怒りつけられて当然な個人トレーやロウ義歯を作っていたものだと恥じています。ほとんど彼に手直ししてもらった義歯で、良く咬めるようになった患者さんをみるのは快感でした。診療後、技工室にこもって終電に遅れそうになるまで、義歯創りに‘はまり’ました。失われた歯と歯茎を、本来あったはずの部位に義歯で再現できれば、違和感が少ない良く咬めるものになるはずです。しかし、顎堤の吸収が進んだ無歯顎から、正しい位置をイメージするのは非常に難しいことです。補綴は文字通り、おぎ(補)ない、つづ(綴)ることと知りました。補綴物を‘創り出す’難しさ、面白さであります。
大学人には臨床・教育・研究の3拍子を備えていることが要求されます。勉強の嫌いな私は、3拍子のうちの研究が苦手でした。障害者歯科は非常に楽しいところではありましたが、自分が大学に居続けてよいのか、との思いが次第に膨らんできました。40歳を過ぎて、そんな思いが極に達した頃、豊島病院の歯科医長が、次席の医長の籍が空いたので帰って来い、と声を掛けてくれました。今度は麻酔も含めた歯科治療の腕を買ってくれたのです。100%自分の意志で豊島病院に出戻りました。平成2年のことです。
豊島病院という、自分に最適の職場に恵まれた上に、私を引き抜いてくれた医長は、新装なった荏原病院へと市川先生と私を送り出してくれました。
こうして平成6年から皆様とのご縁ができました。荏原病院の最重点課題が病診連携でありました。病診双方がそれぞれの立場で対応すべき患者さんを診るべく、連携を組もうとするものです。
幸いにも、常勤・非常勤を問わず、働き者の歯科医、歯科衛生士が当科に集まりました。幾ばくかでも皆様のお役に立てる、現在の位置に幸せを感じます。奇しくも、自分の住まい近くの有り難い職場に、流れ流れて辿り着けました。もう一度やれといわれてもできない経緯です。自分は見えない何かに生かされて、現在に辿り着いたのだと思います。
今後ともどうかよろしくお願い申し上げます。