2000.12月号
(先月号から続きます)
1981年・国際障害者年に、全身麻酔までも管理手段を有する心身障害者歯科治療を始めるため、都立豊島病院の歯科医長が歯科麻酔科に医局員の派遣を求めてきました。今から20年ほど前、障害者歯科という言葉が登場し始めたばかりの頃のことです。
歯科麻酔学会認定医の資格を有する医局員が教授室に集められました。「1年で必ず大学に呼び戻すから、歯科麻酔発展のために豊島病院に出向してくれる人は一歩前に出るように!」教授が言いました。集まった皆の胸中に『約束どおり本当に大学へ戻って来られるのだろうか。翌年に交代希望者が出なかったらどうなるのだ?』という不安が一瞬よぎり、私以外の人間は一歩後ろに引いた形になりました。サッカーのオフサイドトラップにかかったような豊島病院行き決定でしたが、この時、私の運命が開けたのです。国家公務員から地方公務員となりました。
当時の豊島病院歯科の常勤者は私を含めて5人。大学の保存、補綴、口腔外科から集められたインストラクタークラスで形成されておりました。外来には11台の歯科治療ユニットに加え、全身麻酔下の歯科処置専用の治療室までありました。常勤3人、治療ユニット6台の荏原病院歯科口腔外科との差をお分かりいただけると思います。空前絶後の規模の病院歯科でありました。スタッフは非常に仲が良く、お互いの専門を効率的に持ち寄って患者さんに当たりました。居ながらにして、麻酔以外の知識が耳学問で入ってきました。今は建て替えられ、規模は半分以下に縮小されております(当科にいた塚越先生が責任者です)。
全身麻酔をかけるのが仕事でしたので、私には歯科治療患者のノルマはありませんでしたが、空いている時間に興味のある治療をやるのは自由でした。次第に、他のスタッフが手を出しにくい、重篤な全身疾患を有する患者さんが私に集まるようになりました。それらの方々はリスクが高いため、ほうぼうの歯科医院で治療を断られ、永い間歯ごたえのある食物を食べたことのない人ばかりでした。ファーストエイドには自信がありましたので、血圧計や心電計で循環をモニターしつつ、これらの患者さんをコツコツと治してゆきますと、びっくりするほど喜ばれることが少なくありませんでした。何十年ぶりかで生野菜やおこうこをバリバリと咬めるようになったと喜んでくれたのです。食事がおいしいため食が進み、しばらくするとふっくらしてくる患者さんが少なくありません。「おかげで太ってしまいました」と、笑顔で恨み言を言われました。歯科医である喜びを感じた瞬間でした。咬み合わせがさほど損なわれていない若い患者さんを治してあげた場合とは喜ばれ方が全く異なっておりました。健康とは身体のどこも不具合を感じない状態なのだと知りました。
赴任してあっという間に約束の一年が経ち、後任の歯科麻酔医も決まりました。しかし、都は国よりも給料が良く、仕事も非常に面白かったので、翌夏のボーナスを頂くまで居させてもらいました。1年4ヶ月で障害者の全身麻酔を約150例、たった一人でかけ続けたおかげで度胸もつき、歯科治療の面白さも知って、大学へ戻りました。
この項、世紀をまたがって新春1月まで続けさせていただきます。本年も当科のご支援を本当にありがとうございました。来世紀も当院当科をどうぞよろしくお願いいたします。皆様、良いお年を!