2007.9月号
大学の障害者歯科で、障害者や有病者の治療に当たっていた頃のことです。院内他科の新患係から“心肥大”患者の上顎犬歯の抜髄を依頼されました。現れたのは見るからに健康そうな20歳代の男性でした。なぜ“心肥大”と言われたのか尋ねると「健康診断で胸のX線写真を撮ったら、心臓が大きいねといわれた」のだそうです。大学のサッカー部員です。病的な心肥大などではなく、スポーツ心臓です。麻酔注射や抜髄を行っても何の危険もありません。“心肥大”の病名に怯えず、既往歴をしっかりと聴いて、治療が可能か否か科学的に思考するよう紹介者に注意し、患者を差し戻しました。
いろいろな症例にチャレンジできるのが大学の利点であるはずです。学生や研修医を教えるべき立場にある新患係が、“心肥大”という言葉の響きに、このような対応を示したのです。この新患係は全身的には健康な患者さんのみを治療し続けるつもりだったのでしょうか。
急激な高齢化で、有病者治療や在宅訪問診療など、社会のニーズが高まってきています。歯科医を育てる大学の指導者の多くは補綴、保存、口腔外科など、単一の講座で専門を掘り下げて現在に至っています。多様化した歯科へのニーズに対応しなければならない今後の歯科医を、講座制で育った人間が育てる、という矛盾に歯科界が直面しています。
大森歯科医師会では、このような社会のニーズに応えるべく、8月から11月まで毎月一回、「高齢者・要介護高齢者への歯科診療・歯科保健・口腔介護への対応、通院治療、在宅訪問歯科診療の充実と共に地域医療連携の強化を推進」を目的として、有病者対応や摂食嚥下などについてシリーズ勉強会を企画しました。荏原病院(佐野)、池上総合病院(口外・渡辺大介部長)、昭和大口腔リハ科・高橋浩二教授、東邦大学大森病院(歯口外・関谷秀樹講師)らが、それぞれの立場からわかりやすく実戦に役立つお話をする予定です。病診お互いが診るべき患者さんを担当しようという我が国でもユニークな企画です。他地区の先生方にも門戸を広げています。興味のある方は大森歯科医師会事務局にお尋ね下さい。
冒頭の新患係から後日、今度こそは受けてくれるだろう、と再生不良性貧血患者の抜髄を依頼されました。患者さんの口腔内を見ると新しい抜歯窩がいくつかありました。貧血も改善傾向にあったので、既に院内の口腔外科で保存できない歯の抜歯を受けていたのでした。再び紹介者を呼びつけ、「抜歯でさえ大丈夫であったのだから、アナタにでも抜髄はできる!病名に怯えず、理詰めに物事を考えるように」と申し渡しました。