2001年4月号 歯科における事故の方程式

2001.4月号

 私の母校では、6年生での臨床実習に入る直前の半年間、7,8人のグループに分かれて院内各科を回る臨床予備実習がありました。普段目立たない麻酔 科がこのときばかりは存在感を増して参ります。学生同士がお互いを患者さんに見立てて、麻酔注射を打ち合うからです。注射器を持つのは初めての学生達です。子供の頃に昆虫採集セットの注射器で沢山の虫を殺戮した私は注射経験では群を抜いていたといえましょう。歯科麻酔科に約15年在籍したうちの10年ほど、この局所麻酔・伝達麻酔実習のインストラクターを毎年務める巡り合わせとなりました。

 朝から学生達は緊張気味です。「よく勉強してきただろうな?」と相方に念を押している学生もいます。なかには「先生、ボクこの人とは組みたくありません!」とすがるように訴えるものまで出て参ります。入学以来の5年半で相方がどのような人間なのかよく分かっているからです。不信感いっぱいです。実習の段になります。治療台に座らされて注射を待っている学生の目の動きを観察していると、患者さんの気持ちそのものです。術者役の相方が何か不都合なことをしでかさないかと、その一挙手一投足を食い入るように見つめているのです。余計な恐怖をあおらないためにも、注射器は患者さんの目の届かないところで組み立てるべきだと学びました。
注射の準備が整いました。術者役にも余裕がありません。治療台の背もたれは直立したまま、ライトは患者役の腹部を照らしたままで行おうとしています。術者座位、患者水平位でするように伝えた指示など、どこかに飛んでしまい、頭の中が真っ白になっているのです。患者役の目の前に注射針が迫ります。安頭台で頭の動きは制限されていますが、ずり上がれるだけずり上がって、針から逃れようとしています。私もこのときの恐怖は、はっきりと覚えております。
ほぼ毎年、注射を打たれた直後に気分不快を訴え、実習続行不可能になる学生が出現しました。歯科臨床でしばしば遭遇する疼痛性のショックです。入学したときからこのような実習のあることを覚悟しており、どのような薬を打たれるかも知悉しているはずの健康成人男子学生(女子は皆無)が、一過性の末梢循環不全に陥るのです。根底にあるのは術者に対する不信感だと思います。健康な学生でもこのようなことが起こるのです。これが心臓に予備力の少ない患者さんなどであったらどうなりましょうか?
日常的な歯科診療では、太い動脈を誤って切断したり劇薬を静脈内投与することはほとんどないと言えます。しかし、歯科治療は術者と患者さんとの身体的接触を必ず伴うものです。侵襲はそれほど大きくなくても、痛みを伴うことが少なくありません。'こんな先生に口をいじられたくない'、との思いを患者さんが抱いているまま、信頼関係が形成されていないままに不用意な痛みが口腔内に加わると、時として患者さんは精神の平静を失い、肉体的な平静をも失うことになります。事故につながります。ほぼ30年近くリスクの高い患者さんの治療に携わって、患者さんとの信頼関係の確立こそが、事故を予防するために一番大切なことであると確信するものです。歯科における事故についてはお伝えしたい事例が沢山あります。今後も機会をとらえてご紹介してゆきます。

歯科コラム