2000年11月号 流れ流れて都立荏原病院歯科口腔外科

2000.11月号

 今月と来月号とで、私が毎日興奮の連続である現在の職場に流れ着いた経緯をご紹介したく思います。

 幼い頃、世の中には大学4年間では勉強し足りない人が行く、大学院という存在があることは知っておりましたが、勉強の嫌いな自分とは全く無縁のものと思っておりました。6年間という歯学部に入り、昭和48年に卒業も間近を迎えてしまいました。しかし、自分がどのような歯科医になりたいのかが見えて来ません。とりたてて進みたい診療科もありませんでした。たまたま、競争倍率のなかった歯科麻酔科の大学院に、結論を先延ばしするように入ったのが私のツキの始まりでした。今から30年近く前のことです。歯科医が全国で僅か3万人ほどしかいなかった時代でした。

 歯科麻酔科は当時できたばかりの診療科でした。口腔外科手術の全身麻酔を担当する他、歯科は痛いのが当たり前の時代に、痛くない快適な歯科治療を目指して笑気吸入鎮静法や静脈内鎮静法を治療に併用したり、小児歯科と協力して知的障害の患者さんの一括歯科治療を全身麻酔下で細々とやっていました。正常な小児の口の中でさえ虫歯で溢れていた時代です。学生時代の生理学は難解でしたが、麻酔は臨床生理学であり、非常に面白くはありました。しかし、余りにも時代を先取りしすぎた科に入ってしまった、自分の生きている間には歯科麻酔などというものはお呼びではないのでは、との感は否めませんでした。

 大学院を修了した直後の半年間、全身麻酔研修のため都立清瀬小児病院に出向できました。歯科医とその関係者だけが棲息する大学歯学部を離れ、初めて外の世界を見られたのは幸運でした。
緑に囲まれたきれいな病院で、口腔外科手術以外の麻酔を300例以上かけられたのです。歯科麻酔では皆無の、マスクで維持しつづける全身麻酔も沢山経験することができました。いざというときに何をしなければならないか(ファーストエイド)がしっかりと身に付きました。開胸手術の際、酸素を送り込む度にむくむくと入道雲のように膨らみながら青(静脈色)からピンク(動脈色)へと色を変えてゆく肺胞のガス交換は幻想的でした。心臓外科の手術や隣り合った二つの手術室で息を合わせて行う腎移植手術なども体験できました。
いろいろな病気があることもよく分かりました。治る見込みのない先天的難病のお孫さんを毎日見舞い、日がな一日抱き続けてあげているおじいさんの姿は今でも記憶に残っております。
患者さんを助けるために各科の医者が上手に連携し、不眠不休もいとわない姿勢を目にしました。医者は自分の専門の限界をよく知っており、チームで治療に 当たるのが上手です。歯科医は一人で患者さんの全てをできなければならないと考えがちで、チームであたることが苦手だと感じました。都立清瀬小児病院には 歯科医はおりませんでした。麻酔研修の立場ではありましたが、病院に存在するたった一人の歯科医として専門的な意見を求められることが少なくありません。われわれの領域も身体の一部を守備範囲とする、無くてはならない科であることを強く認識し、歯科の勉強をおろそかにできないと思いました。得ることの多かった清瀬小児病院での研修は、自分の帰るべき大学歯学部病院を外から見つめられる有り難い半年間でもありました。

歯科麻酔科に戻って、大学での忙しい日常に戻りましたが、依然として自分がどのような歯科医を目指すのかが見えてきませんでした。歯科麻酔医としてやって行くのか、他にもっと進むべき道があるのかがよく分からなかったのです。そんな私に国際障害者年とされた1981年、転機が訪れました。(来月号に続きます)

歯科コラム