2002年4月号 忘れがたい逆紹介の患者さん・その3

2002.4月号

 先月号から続きます。
 治療終了を感謝するメールをいただいたことがきっかけで、この患者さんとメールを通じてお話しするようになり、彼の著作を読む機会に恵まれました。それらのうちで最も印象に残った内容をご紹介します。
 交通事故にあって頸椎損傷を受けたため、自力で呼吸筋を動かすことさえできない状態に陥った患者さんは、気管切開孔を通して人工呼吸器に繋がれました。 自分の意志とは関係なしに、文字通り器械で機械的に呼吸運動をコントロールされるのです。ため息もつけず、あくびもできない生活です。
 事故の後、1年10ヶ月にもおよぶ入院中に、人工呼吸器と身体を繋ぐホースが8回外れたそうです。呼吸回路の内圧が高まったときに接続部分から外れるのです。水道の蛇口に押し込まれた劣化したゴムホースが、水圧の上昇のために外れてしまうことは、洗車の際などでご経験があると思います。ホースが外れて呼吸回路の内圧が低下すれば、けたたましいアラームが鳴ります。私は歯科麻酔をかじったことがありますので、人工呼吸器に繋がれた患者さんの気持ちは充分に分かっているつもりでおりました。彼の文章を読んで、それが医療の側に立っている者の薄っぺらな理解にすぎないことがよく分かりました。ホースが外れても すぐにアラームが鳴るから問題ないと思っていたのです。
 先ほど触れたように、呼吸回路のホースが外れる場合とは、回路の内圧が上がる呼気の場合なのでした。水に潜る前にわれわれは大きく息を吸い込み、体内に酸素をため、心構えをして潜水に備えます。息を吐き切ってから水に飛び込むことは決してありません。
 呼気の時に予期せず呼吸回路のホースが外れます。気管切開をされている上に頸椎損傷をしていますから、大声を出して助けを呼ぶことも、ナースコールのボタンを押すことさえもできません。意識は全くクリアです。誰かがアラームに気が付いてくれるまで、ひたすら待つしかないのです。ホースが外れたうちの1回は、周囲が気が付くまでに2分も要したために、気を失ったそうです。呼気時に予期せず息ができなくなる窒息の恐怖。夜間に多いそうです。スーパーマン俳優 だったクリストファー・リーブの本にも、ホースが外れた時の恐怖が生々しく綴られていました。呼吸ができなくなる恐怖から精神が不安定になり、不眠に陥る方が少なくないのだそうです。呼吸器に繋がれて声を出せない患者の声に耳を傾けて、安全で、かつ回路が外れないものを作ることができないのか、と彼は結ん でいました。
 新年には年賀メールが届きました。無事な証でした。去年の正月は年賀状が届かず、その後の便りもないので気にしていたところ、落ち葉の季節になって奥様からメールが届きました。夏に腎不全で亡くなったという訃報でした。呼吸器のトラブルや管理ミスではなかったことだけがせめてもの救いであると書かれていました。

歯科コラム