2008.1月号
かなり前のお話です。ある歯科大学の補綴科から下顎前歯部が腫脹した患者さんを紹介されました。年齢は29歳、体重はわずか23Kg、拒食症の女性でした。16歳の頃、クラスメートに、太っているといわれてから、過度のダイエットに走りました。上顎は無歯顎、下顎には数本の残根があり、適合のよくない総義歯が入っていました。残根の1本に大きな根尖病巣があり、急性化して外歯ろうになって噴火しそうな程、右下顎前歯部が膨らんでいました。文字通り骨と皮、骨格の上を皮膚が覆っているようで、とても20台の女性には見えませんでした。患者さんは痛みは訴えるものの、治療を受けることには消極的で、しきりと帰りたがります。全身状態は最悪、血液検査では極度の飢餓状態が伺え、腎不全の既往もありました。
強力に消炎をはかるため、即入院させて抗生剤を点滴で投与する必要がありました。メンタル面を支えてもらうため、精神科病棟に入院させてもらいました。患者さんは病棟で出される食事にほとんど手をつけず、ジャンクフードを口にしては、トイレに行って舌根部を指で抑えて嘔吐する行為を繰り返しました。「病院はイヤ。死んでもいいから家に帰りたい」と言い続けます。病棟も困り果てました。
休みの土曜の午後、病棟に行き夕方まで彼女と話しました。「死ぬのは勝手だけど、預かっている我々が困る。アナタはこれまで誰の世話にもならず、自分一人で生きてこられたと思っているだろうけど、それは、アナタの存在が迷惑になる程、世間にとって大きくなかっただけ。人間は生かされているのであって、一人で生きて来た、と思うのは傲慢。アナタを大事に思うからこそ、お休みの日に出てきて、こんなに強い調子で話してるの!」等々、熱っぽくおぢさんの説得を敢行しました。傍で聴いていた若手のドクターが、「感動した!」と言いました。親にもきつく怒られたことのなかった人が、赤の他人にガツンと言われてかえって新鮮だったのでしょう。週明けにお母さんが来て「娘が歯を抜いて、よく噛める入れ歯をつくって欲しいと申します。」といいました。
原因の残根を抜き、炎症も治まったので退院させ、通院で上下の総義歯をつくることになりました。きっと太らせてみせよう、と気負いました。
抜歯窩も盛り上がり、スナップ印象をとり、個人トレーを準備して、上下の精密印象をとるところまできました。約束の日に来院しませんでした。
2週間程経った午前中にお母さんが訪れました。予約の日の早朝に眠るように亡くなっていました。「先生のお陰で、新しい入れ歯で食べるんだ、という気に初めてなったのに、残念です。」と涙を流されます。歯科外来は狭く、患者さんと深刻な話をできるようには仕切られていません。ごった返している待合いコーナーで立ち話。他の患者さん達の目には、女性を泣かせている悪い歯医者、と映ったことでしょう。
噛んで食べる喜びを取り戻した、ふっくらした彼女を見てみたかったです。